サルデーニャ島最大のロマネスク教会である、バジリカ・ディ・サン・ガヴィーノのことを書く前に、まず、サン・ガヴィーノというサルデーニャでとても親しまれている聖人について書きたいと思います。
サン・ガヴィーノ伝説
サン・ガヴィーノはサルデーニャでとても親しまれている聖人の一人。
ガヴィーノという名前の人に出会ったら、その人はサルデーニャ人だと思って間違いない。イタリアはカトリックの国のため、人々の名前は、ほとんどが聖人の名前である。聖人の名前を付けないと、カトリックの洗礼を受けられないからだ。
サルデーニャ産の小玉スイカには、ガヴィーナという名称で販売されているスイカまであるくらい、サルデーニャを代表する名前なのです。ガヴィーナはガヴィーノの女性形。イタリア語の名詞には男性名詞と女性名詞があり、果物は全て女性名詞。ちなみに、イタリアで小玉スイカが売られ始めたのは、ここ10年くらい。私がイタリアに来た2004年には、まだ小玉スイカは売られておらず、伝統的な大きなスイカばかりだった。ガヴィーナスイカは2005年にプロジェクトが始まったようで、イタリア産小玉スイカの先駆けなのです。
ガヴィーノ Gavino は、ラテン語の Gabilus に由来し、”Gabiumに住んでいる人”という意味。Gabium は、ラツィオ州の古代ローマ時代にあった町。
サン・ガヴィーノは、ラツィオ州の生まれなのだが、サルデーニャ島の北の町、ポルト・トーレスの近くで、303年10月25日に殉教した。
時は、キリスト教徒を迫害したディオクレティアヌス帝の時代。ガヴィーノはサルデーニャ島に派遣されたローマの兵士であった。そのため、サン・ガヴィーノは、ローマ軍の制服を身に着け旗を持って馬に乗る勇ましい姿で描かれていることが多い。
キリスト教への信仰を捨てなかったため、アジナラ湾を望むポルトトーレスの近くの洞窟の牢屋に入れられていた、キリスト教の司祭であったプロト Proto とその助祭であったジャヌアリオ Gianuarioを監視する役割をガヴィーノは任されていた。しかし、プロトとジャヌアリオは拷問を受けても屈せず、祈りを唱え続けた。その姿に心を打たれたガヴィーノは、2人を牢屋から逃がす。そして、ガヴィーノもキリスト教を信仰するようになる。
そのことを知ったローマの総督から問いただされると、ガヴィーノは自分が二人を逃がしたこと、キリスト教徒となったことを告白する。そして、拷問を受けてもキリスト教への信仰を貫いたため、斬首刑を言い渡される。
303年10月25日、ガヴィーノは斬首刑を受ける。そして、その2日後、逃げていたプロトとジャヌアリオも逃げることをやめ、ガヴィーノに続き、斬首刑される。
ポルトトーレスのバライ Balai という場所の海岸沿いに小さな2つの教会が建っている。
サンガヴィーノ・ア・マーレ教会 San Gavino a Mare (バライ・ヴィチーノ Balai vicino とも呼ばれる)とサントゥ・バインズ・イスカビザッドゥ教会 Santu Bainzu Ischabizzaddu (バライ・ロンターノ Balai lontanoとも呼ばれる)だ。
3人が斬首された場所に、サントゥ・バインズ・イスカビザッドゥ教会がのちに建てられた。この難しい教会の名前はサルデーニャの方言で、サン・ガヴィーノが斬首された、という意味。
サントゥ・バインズ・イスカビザッドゥ教会は、海岸の崖っぷちに沿って建っている。3人が斬首されたあと、キリスト教信者たちが遺体を崇拝しないように、3人の遺体は海に投げ捨てられたと言われている。伝説によると、しかし、3人の遺体は波によって、現在のサンガヴィーノ・ア・マーレ教会が建つ場所に運ばれたと言い伝えられている。
そして3人の聖人は、1600年代に発見され、バジリカ・ディ・サン・ガヴィーノのクリプタへ移される前までは、サン・ガヴィーノ・ア・マーレ教会に埋葬されていたとされていた。内部には3人の遺体を隠していただろうと言い伝えられている壁龕がある。
サン・ガヴィーノは、キリスト教の司祭であったプロト Proto とその助祭であったジャヌアリオ Gianuario とともに3人組で描かれていることも多い。ローマの兵士の姿のサン・ガヴィーノが真ん中で、プロトとジャヌアリオの二人は聖職者の服を着て、年寄りのプロトは髭をはやし、ジャヌアリオは若い方だ。
サン・ガヴィーノにはまたこんな伝説も残っている。
斬首刑を言い渡され、その刑を執行される場所に連れていかれる道すがら、良く知っている一人の婦人に出会う。その婦人は、処刑される際に目を隠すためのベールをサンガヴィーノに手渡す。サン・ガヴィーノの死後、そのベールを手渡した婦人の夫の前にサン・ガヴィーノが現れる。夫の家畜が転んでしまったのをサンガヴィーノが助けたのだ。そして、婦人に借りたものだから、返すように、そして婦人に感謝の気持ちを伝えてほしいとベールを手渡される。夫が家に帰ると、婦人はサンガヴィーノが亡くなったことを悲しみ泣いていた。夫はサンガヴィーノに道端で出会ったため、サンガヴィーノの死を信じられなかった。しかしそのベールに血痕を見つけ、サンガヴィーノが死後、ベールを返すために現れたこと、奇跡の現場に立ち会ったことを理解したのだった。
バジリカ・ディ・サン・ガヴィーノ
そのサン・ガヴィーノを祀っているのが、サルデーニャ島を代表するロマネスク教会であるバジリカ・ディ・サン・ガヴィーノ。
バジリカ・ディ・サン・ガヴィーノは、サルデーニャ島北西部、ポルト・トーレスの町の中にあるモンテ・アジェッル Monte Agellu の小さな丘の上に建つ。トーレス王国のジューディチェ、コミタ Comita が呼んだピサの職人たちによって、1030年から1060年の間に建てられた。
このモンテ・アジェッルの丘の南側は、ローマ時代の4世紀からは Turris Libisonis の町のネクロポリであった。Turris Libisonis は、紀元前1世紀につくられた古代ローマのコロニアである。
現在のポルト・トーレスは、フェリーがイタリア本土などと結ぶ一見するとだたの港町なのだが、実は長く重要な歴史がある町。現在のサルデーニャ州第2の都市で、ポルトトーレスから20kmほど内陸に入ったサッサリの前身がポルト・トーレスなのです。
バジリカに隣接するアトゥリオ・メトロポロ Atrio Metropolo とアトリオ・コミタ Atrio Comita の2つの広場からは、数多くの埋葬品が発掘され、それらのうちのいくつかは、モザイクやフレスコで装飾されていた。また、バジリカに先立つ宗教儀式のための3つの建物跡やローマ時代の貯水槽も発見されれている。
バジリカ・ディ・サン・ガヴィーノは、サルデーニャ島で最も大きなロマネスク教会で、長さは58.26メートル、幅17.36メートルある。サッサリに司教座が移る1441年までは、司教座大聖堂であった。
バジリカ・ディ・サン・ガヴィーノは、北東と南西に2つの対置するアプシスがあり、ファサードがないというかなり変わったつくりだ。(ふつうの教会はアプシスはひとつのみ。)なぜこのようなつくりになったのかは、わかっていない。内部は22本の柱がある三廊式。柱と柱頭は、紀元前46年にガイウス・ユリウス・カエサルによってつくられた植民都市跡 Iulia Turris Libisonis のものを再利用したものと考えられている。(教会では昔のものを再利用することも結構あるのです。)
また、北西側の扉はロマネスク様式、南東側の扉はゴシック・カタラーナ様式であるというのもおもしろい。
バジリカ・ディ・サン・ガヴィーノは、303年にディオクレティアヌス帝のキリスト教弾圧により殉教した、3人の聖人、ガヴィーノ、プロト、ジャンヌアリオに捧げられている。3人の遺骸は1614年の大規模な発掘の後につくられた1600年代のクリプタに納められている。
地下のクリプタには、Turris Libisonis のネクロポリにあった3世紀から4世紀の石棺や。中世の石棺、4世紀の葬儀用礼拝堂の跡、カッラーラ産大理石を用いて1700年代につくられた3人の聖人の像などがある。
教会の北西側の扉には、アダムとイブ、ライオンやワシが彫られている。ロマネスク教会の魅力の一つに、このようなちょっと、とぼけたような彫刻が挙げられると思う。
バジリカの周りには、16世紀から17世紀に建てられたの巡礼者の家という意味の cumbessìas と呼ばれる巡礼者を受け入れた宿泊所がある。