中世のサルデーニャ島 サルデーニャ島の歴史④

オルビア ぺドレス城 サルデーニャ島の歴史

今回はサルデーニャ島の中世の歴史についてです。

サルデーニャ島の中世は、5世紀から15世紀まで、およそ千年間続きました。

中世とは

イタリアの中世とは、476年から1492年までのおよそ千年間。つまり、476年の西ローマ帝国崩壊から、1492年のコロンブスのアメリカ大陸発見までのおよそ千年間を指します。

イタリア語では、中世のことをメディオエーヴォといいます。メディオが真ん中、エーヴォが時代という意味で、つまり古代と近世の間の時代のことなのです。

また、476年から1000年までを前期中世、1000年から1492年を後期中世と分類されます。

サルデーニャ島の中世は、455年にゲルマン民族のヴァンダル人が侵略した時から15世紀半ばのアラゴンがアルボレア王国を滅ぼし、サルデーニャ島全体を支配し始めたときまでのおよそ千年間を指します。

ヴァンダル人

ヴァンダル人は、他のゲルマン民族と同様、遊牧民であり、ライン川とドナウ川の向こう側から来た民族。ライン川とドナウ川の2つの大河は、ローマ帝国との境界となり、長い間、安全な国境でした。しかし、ローマの弱体化により3世紀頃からこの国境は次第に安全ではなくなっていき、ゲルマン人はこの河を数回にわたって超えていきました。 ヴァンダル人も同様に、4世紀から5世紀にかけて、初めはスペイン、そして次には北アフリカに居住し始めた。

他のヨーロッパの地域と同様に、サルデーニャ島もヴァンダル人の侵入を受け、455年には、サルデーニャ島もヴァンダル人によって征服されたと推測されています。サルデーニャ島はおよそ700年間続いたローマの支配ではなくなったのです。

ヴァンダル人はなぜサルデーニャ島を占拠したのか?

ヴァンダル人はなぜサルデーニャ島を占拠したのでしょうか?

歴史研究者によると、それはヴァンダル人の”職業”と結びついていると考えられています。つまり、ヴァンダル人は海賊行為を”仕事”としていたため、サルデーニャ島は、地理的に大変好都合だったからです。地中海の中心に浮かぶサルデーニャ島は、他の大陸を襲撃するための船の発着地点にちょうど良かったのです。

ヴァンダル人によるサルデーニャ島の支配は、80年間ほどで、ヴァンダル人の興味の対象は主に沿岸部でした。ローマ時代に使われていた港も活用されました。

サルデーニャ島は、政治的にも軍事的にも権力を持つたった一人の支配者によって、統治されていました。支配者は、ヴァンダルの首都であるカルタゴ Cartagine に住み、取り立てた税は支配者のものとなりました。

5世紀の終わりには、サルデーニャ島の他、コルシカ島と北アフリカ沿岸部をヴァンダル人は支配下においていました。

サルデーニャ島にヴァンダル人が遺した痕跡は、重い税と強奪による集落の急襲以外には何もないと歴史家はいいます。ヴァンダル人が犯した数々の破壊の一つに、ローマ時代に繁栄した豊かな町であったオルビアへの放火と襲撃があります。(船が燃やされた跡が残っています。)

ヴァンダル人支配下のサルデーニャ島のキリスト教

ヴァンダル人の支配時に、サルデーニャの人々とカトリック教会は親密に絡み合っていました。

461年には、カリアリ出身のイラリオ Ilario が教皇に選ばれました。さらに、498年には、サルデーニャ島出身のシンマコ Simmaco が教皇となりました。

シンマコ教皇は、ローマに着いたときは、異教徒であったと言われています。このことは、サルデーニャ島ではこの時代には異教が流布していたと考えることができます。

ヴァンダル人はアリウス派のキリスト教徒でしたが、(アリウス派とは、イエスキリストの神性を否定し、三位一体を否定)カトリック教徒のサルデーニャ人を迫害しませんでした。

しかし、ヴァンダル人のTrasamondo王は北アフリカのカトリック教徒を迫害し、北アフリカの司教を国外追放したため、サルデーニャ島へ亡命してきた司教もいました。

その中で北アフリカからサルデーニャ島へ亡命してきたチュニジア出身の Fulgenzio フルジェンチオ司教は、その時代の最も重要な司教の一人であり、カリアリにサルデーニャ島で最も古い修道院を創設しました。この修道院があった場所は、カリアリで最も古い教会のひとつであるバジリカ・ディ・サン・サトゥルニーノ Basilica di San Saturnino。

ヴァンダル人の支配時には、サルデーニャのカトリック教会は、5つの司教区、つまり、Karales司教区(現在のカリアリ)、Form Traiani司教区(フォルドンジャーヌス)、Sulci司教区(サンタントニオ)、Turris Libisonis司教区(ポルト・トーレス)、Senafer司教区(クリエーリのSanta Caterina di Pittinuri にあるCornusという古代の町)の司教たちによって運営されていました。

ユスティニアヌス1世

もし、東ローマ帝国の軍隊がヴァンダル人を追い払わなかったら、どのくらいの期間ヴァンダル人がサルデーニャ島を支配していたかは計り知れません。 527年、コスタンティノーポリ(現在のイスタンブール)で、繁栄していた東ローマ帝国の皇帝となったユスティニアヌス1世は、コスタンティノーポリと旧西ローマ帝国をつなげたいという構想を練っていました。

534年、ユスティニアヌス帝の軍隊はカルタゴの近くでヴァンダル人を打ち負かし、サルデーニャ島はビザンティン(東ローマ帝国)の一部となります。

ビザンティン時代のサルデーニャ島の主要な町

現在のサルデーニャ州の州都であるカリアリには、プラエセス praeses と呼ばれる最高の権限を持つ統治者が住んでいました。プラエセスは統治者 governatore という意味。プラエセスのもとには、タロス Tharros, ポルトトーレス Turris Libisonis, オルビア Olbia (ビザンティン人は Phausiané と呼んだ) の3つの県都 capoluogo があり、それぞれ3人の官僚がいました。カリアリ Karales と合わせて4つのプロヴィンチャ(県) provincia がありました。

この4つのプロヴィンチャ(県)は、現在のサルデーニャの県に相当します。タロスは、のちにオリスターノへ。ポルトトーレスものちにサッサリへ。ビザンティンの時代からサルデーニャの主要な町が21世紀まで引き継がれていることはとても興味深い。

また、古代ローマの町のフォルドンジャーヌス Forum Traiani には、ビザンティンの時代にもサルデーニャ島の軍司令部がありました。バルバジア地方に住むサルデーニャ人が時折反乱を起こし、Forum Traiani(現在のフォルドンジャーヌス)に駐屯していた、duxと呼ばれた軍総司令官の部隊と戦いました。ローマ人と同様にビザンティンにとっても、サルデーニャ島内陸部に住むサルデーニャ人との闘争は難しく、数世紀に渡りバルバジア地方はビザンティンの支配を受けませんでした。

ビザンティン時代のサルデーニャ島におけるキリスト教

ビザンティンの支配の時代、サルデーニャ島では急速にキリスト教が広まりました。この時代に伝えられたキリスト教の伝統は、現在の私たちの時代のサルデーニャ島にも受け継がれており、祭りや特定の聖人に対する崇拝 (San Saturnino、San Basilio、San Michele、Vergine Assunta、San Costantino)は、現在もなお、いくつかの町や村に継承されています。

当然のことながら、キリスト教は、普及していた異教の代わりとして広まりました。

教皇グレゴリウス1世 Gregorio I は、サルデーニャ島へのキリスト教布教に熱心で、594年には、キリスト教徒でありバルバジア地方の首長のような役割を果たしていたオスピトーネ Ospitone 宛に、バルバジア地方の住民をキリスト教に改宗させるように促した書簡が残っています。この手紙には、バルバジア地方のサルデーニャ人は、ヌラーゲ時代からの古い自然信仰を崇拝しており、キリスト教への洗礼を拒否していたことが書かれています。

ビザンティンの時代には、サルデーニャ島にはいくつかの新しい教会が建てられました。カリアリのサン・サトゥルニーノ教会 la basilica di San Saturnino、シリゴのノストラ・シニョーラ・ディ・メズムンドゥ教会 Nostra Signora di Mesumundu、 サンジョヴァンニシニス教会 San Giovanni in Sinis などが挙げられます。これらの教会は、東方教会の典型的な設計で、”ギリシャ十字”と呼ばれる十字の縦と横の長さが等しく、中央にクーポラがあるのが特徴です。

サンジョヴァンニシニス教会 Chiesa San Giovanni di Sinis
サンジョヴァンニシニス教会(6世紀)
ノストラシニョーラメズムンドゥ教会 サンタマリアディブバリス教会
ノストラシニョーラメズムンドゥ教会(6世紀)

ヴァンダル人の支配時と同じように、ビザンティンの時代のサルデーニャ島の司教は、サルデーニャ島の住民の本質的な基準点でした。住民たちはキリスト教に関わること以外でも、市民生活全般に関わることの見解を司教から聞きました。なぜなら、教会は広大な土地を所有し、農業や牧畜などの経済活動を行っていたからです。

ビザンティンの時代のサルデーニャ島の経済

ビザンティンの時代のサルデーニャ島の主な産業は、ローマ時代と同様、農業と牧畜でした。
広大なラティフォンディウムもありましたが、それらは少数の金持ちの所有であり、その近くに小さな区画の土地や村人たちの共有の土地がありました。共有の土地では村人たちが畑を耕し、羊やヤギを飼っていました。
麦は、主要な農産物であり、ブドウ畑や果物の木もありました。
集落の家々は粗末で小さく、食事は慎ましいものであり、大土地所有者の金持ちや聖職者だけが、時折、肉や魚を食することができました。
また、聖職者になる者や大規模土地所有者の子供だけが学問を受けることができました。
他のヨーロッパ諸国と同様に、ローマ時代と比べて、人口は減っていたが、カリアリは地中海の航路である港があり、商品の売買が行われ貨幣も流通していました。

公式言語はギリシャ語であり、サルデーニャ島では法的、行政的、宗教的文書はギリシャ語で書かれていました。しかし、人々の日常会話はラテン語の変化形であり、これが現在も使われているサルデーニャの方言であるサルド語の起源となっています。

アラブ人の襲撃

8世紀頃からアラブ人のサルデーニャ島への襲撃はますますひどくなり、ビザンティンの支援もサルデーニャ島は地理的に遠く、滞るようになりました。そのため、サルデーニャ人自身でサルデーニャ島を守る必要があり、そのことが、10世紀以降に、4つのジューディカーティと呼ばれる独立国ができる要素となったと考えられています。

ビザンティンとの関係が薄くなっていくにつれ、地中海貿易で急成長していたピサ共和国とジェノヴァ共和国に支援を要請することになります。

また、教皇もサルデーニャ島への軍事的支援の要請をピサ共和国とジェノヴァ共和国に行い、11世紀の初めにはアラブ人の Museto の船団を大敗させました。この救援と引き換えに、サルデーニャ島の権力機構は、ピサとジェノヴァのいくつかの重要なファミリーへ与えられ、ピサ共和国とジェノヴァ共和国はサルデーニャ島との商業を安定させることができました。このようにして、次第にピサとジェノヴァがサルデーニャ島へ入り込んでいったのです。

ジューディカーティの始まり – 1000年頃のサルデーニャ島

1000年ころになると、サルデーニャ島の政治状況は、それまでとは完全に変わっていきました。
9世紀から10世紀にかけてビザンティンが4つの港町にそれぞれ今の県庁のようなものを与えて分けたサルデーニャの4つの地域が4つの独立国となり、10世紀頃になるとそれまでのように外からの支配を受けることなく、自立した状況となったのです。

つまり、コスタンティノーポリからの指示に従う必要がなくなったのです。

例えば、815年にサルデーニャ人は、アラブの攻撃に対する助けを求めるため、ローマ皇帝ルートビィヒ1世に外交使節団を送りました。872年には、教皇ヨハネ8世 Giovanni VIIIは、「サルデーニャの君主たちへ」書簡を送りました。つまり、872年には、ビザンティンは、サルデーニャ島をコントロールしたり守ったりすることができなくなったことを意味します。

11世紀には、サルデーニャはどこの国からも支配を受けない完全な4つの独立国からなり、国際的な協定にも調印する能力を持っていました。

4つの独立国とは、カリアリ王国、トーレス王国、ガッルーラ王国、アルボレーア王国。

画像はwikipediaより

ジューディチェとは

4つの独立国の国王は、ジューディチェと呼ばれていました。イタリア語でジューディチェは、裁判官という意味なのでちょっとややこしいのですが。そして、この4つの独立国があった時代はジューディカーティの時代と呼ばれています。

ジューディチェ giudice は、ラテン語の jus dicere (法律を命令する)に由来します。法律を命令する、つまり統率する、指揮するという意味から、ジューディチェが国王と同等という解釈となったのです。

おそらく、もともとは4つの独立国の王は、同一のファミリーからきているものと推測されています。4つの独立国の最初のジューディチェは4人ともラコン Lacon とグナーレ Gunale という苗字だからです。

おそらくは、ビザンティン時代の軍隊指揮者 dux とゴベルナトーレ praeses の子孫だったと考えられています。

そして、ラコニ Laconi とグナーレ Gunale(現在は消滅したが現在のアルツァケーナ Arzachena の近く)出身だと考えられている。

ジューディチェは、家族とともに王宮や城に住んでいて、政治的、司法的な最高の権力を持っていたが、絶対権力ではなかった。

ジューディチェは、コロナ・デ・ログ Corona de Logu つまり、国の議会で選ばれました。

ジューディカーティについて

議会は、ジューディチェを辞めさせることができました。

国であるジューディカーティという名前は、ジューディチェという君主が統治していたことに由来します。

ジューディチェは絶対君主ではなく、コロナ・デ・ログ Corona de Logu と呼ばれる議会によって選ばれました。国は、クラトリア curatoria に分けられ、コロナ・デ・クラトリア Corona de Curadoria という議会によって運営されていました。

クラトリア Curatoriaは、いくつかのヴィラッジ villaggi(村々)で構成されていました。

封建制度や奴隷制はなかった。

社会階級は、マヨレス majores, ウオーミニ・リーベリ uomini liberi, セルヴィ serviにわかれていた。

カリアリ王国、トーレス王国、ガッルーラ王国は13世紀の半ばから終わりにかけて消滅し、ピサ共和国やジェノヴァ共和国の支配となりましたが、アルボレア王国は14世紀の終わりまで権力と独立を守りました。

ジューディカーティの時代の行政区画

国は、ジューディカート giudicato と呼ばれた(ログ Logu とも呼ばれた)。

国 giudicato は、たくさんの行政上の地域、クラトリア curatoria つまり、いくつかの村々が集まった広い範囲の地域にわかれていた。

それぞれのクラトリアには、curadore と呼ばれる長がいた。

ヴィラッジョ villaggio は、現在のイタリアの基礎自治体であるコムーネ comune にほぼ相当する。

多くの人々は、田舎に住み、町には、行政を司る人など少数の人が住んでいました。

研究者によると、14世紀前半の黒死病の前には、サルデーニャ島にはおよそ900のヴィラッジョがあり、人口はおよそ30万人だったと推測されています。

その後、黒死病、飢饉、カタルーニャ人の侵攻による戦争などで人口は大幅に減り、ヴィラッジョも400以下となり、現在のサルデーニャ州のコムーネの数377と同じくらいになりました。

修道士たち

ジューディチたちは、ベネディクト会に修道士をサルデーニャ島へ送るように要請しました。中世の修道院は宗教や文化だけではなく、農業などの技術面でも最新のものを持っていたからです。

サルデーニャ島に来た修道士たちはサルデーニャ島の発展に多いに貢献しました。

農業では、湿地が開墾され、農地が広がり、輪作を行うようになった。

11世紀の終わりまでに、ベネディクト会修道士は、トーレス王国とカリアリ王国に拠点をおいた。

カリアリのジューディチェは、ベネディクト会のヴィットリー二派 vittorini を呼び寄せました。

ベネディクト会のヴィットリー二派に、いくつかの教会を献上し、ヴィットリー二派はカリアリの沿岸の養魚場や塩田を運営するようになりました。

ベネディクト会から派生した、カマルドリ会、ヴァッロンブローサ修道会、シトー派修道会も続いて、サルデーニャ島へやってきました。全ての修道会は、定住するための土地や教会、下僕を与えられました。

マヨレス majores の出資により、ロンバルディアやトスカーナ、フランスから有能な職人を呼び、サルデーニャ人の石工や大工熟練者を雇い、トーレスのバジリカ・ディ・サン・ガヴィーノや オルビアのサン・シンプリーチョ教会、アルダラのサンタ・マリア・デル・レーニョ教会、サンタ・ジュスタのバジリカなど多くの美しいロマネスク様式の教会が建てられました。

ジューディカーティの時代の産業

ジューディカーティの時代の主要な産業は、農業と牧畜でした。

農産物の主なものは、小麦とオオムギ。サルデーニャ島は、カルタゴ人の時代から、麦の栽培が盛んであり、これは中世の時代にも引き継がれました。また、ひよこ豆やソラマメも多くの収穫量がありました。そしてもちろん、オリーブやブドウ畑、果実園などもありました。

ヴィラッジョの一部分のみの土地が所有者により柵でかこまれた土地であったが、その他の土地は、住民が自由に共同で、種をまいたり、牧草地として用いました。

牧畜で最も盛んだったのは、羊で、多くのチーズを生産しました。皮の加工も盛んで、これらは、地中海中、特に、イタリア本土やスペインへ輸出されました。

また、馬の飼育も重要な産業のひとつでした。小型、または中型の馬の飼育で、戦争用にはむかなかったが、輸送や農作業用として用いられました。

羊毛や皮の手工業、洋裁、食器、靴職人、鉄職人、家具職人、石工、大工などの仕事もありました。

沿岸部のヴィラッジョでは漁も食料供給のために重要でした。

スルチスの鉱山は、鉛と銀が豊富でした。

貨幣は、あまり流通しておらず、町でのみ用いられていました。海外との取引をする商人は貨幣を用いていました。

町以外では、物々交換を行っていました。

サルデーニャの商人たちは、ピサ人とジェノヴァ人と一緒にサルデーニャ島と大陸を結び、1200年代からは、カタロニアやナポリ、フランスとも貿易を行いました。

サルド語

ジューディチェは、王国の首都の宮殿や城に住んでいました。他のヨーロッパ諸国の王国を同じように、人々が訪れたり、会合を行ったり、公的、私的なセレモニーを行っていました。

宮殿や城には、ジューディチェとその家族の住居と馬小屋、麦の保管庫、ワイン蔵、貯水槽、自家菜園がありました。

また、マヨレス majores つまり行政を司る官僚たちのオフィスがありました。

行政は、港、道路、軍隊、商業、司法、農業、食料供給に関与しました。

オフィスで最も重要な役割は、公文書局 Cancelleria dello Stato であった。公文書局では、国王がサルデーニャ島内外に送ったり受け取ったりした国の書類が記録され保管されました。

ジューディチは、当時のヨーロッパで初めて母国語(つまりサルデーニャ島ではサルデーニャ語)を公式文書に用いた王国である。当時の他のヨーロッパの王国ではラテン語を用いていたが、ジューディチは、公式文書をサルド語(サルデーニャの口語)で記録しました。

サルド語はイタリア語やフランス語、スペイン語と同様、ラテン語から派生してできた言語である。

サルド語を公文書に用いたことは、法律などが宮廷の人々だけではなく、一般庶民にも理解できたという意味でとても重要である。

コンダーギ

コンダーギとは、教会の羊皮紙文書 pergamene を意味する。羊皮紙文書は1本の棒に羊皮紙を縫い付け丸められました。そして巻きつけられた大型の円筒形状のものができあがった。この棒をギリシャ語で、kontachion といい、ここから、その円筒形状の文書全体をコンダーゲ condaghe と呼ばれるようになった。コンダーギ condaghi はコンダーゲ condaghe の複数形。

コンダーギは聖職者や修道士によって11世紀から14世紀にかけてサルド語で書かれ、出費やジューディチや有力ファミリーからの教会や修道院への寄付、裁判記録などが記載された。つまり、コンダーギから王国の歴史や日常を理解することができる。

中世のサルデーニャ島の教会

中世のサルデーニャ島では、地中海やヨーロッパ諸国との交流からいくつかの芸術的流行がありました。宗教は、この時代の日常生活のなかで重要な部分を占めていたため、芸術は特に、教会や修道院の建築を通して表現されました。

4世紀からは、バジリケ・ディ・コルヌス Basiliche di Cornus に見られるようなローマのコスタティヌス大帝がもららしたモデルの教会が建てられました。

サルデーニャ島で最も古い教会のひとつ。Basilica di Cornus
サルデーニャ島西部にある古い町、コルヌスの初期キリスト教会跡 4世紀頃

6世紀前半からビザンティンの支配となると、カリアリのバジリカ・ディ・サン・サトゥルニーノbasilica di San Saturnino やタロス遺跡の近くにあるサン・ジョヴァンニ・ディ・シニス教会 San Giovanni di Sinis 、ノストラシニョーラ・ディ・メズムンドゥ教会 Nostra Signora di Mesumunduなどの建築物を遺した。

11世紀になると、東方の宗教儀式から西方の宗教儀式へ変遷したため、ロマネスク様式が広まりました。

ロマネスク様式の教会や修道院は、フランスやロンバルディア、トスカーナ、カタラーノのマエストロの指揮のもと、町中だけではなく田舎にも建設されました。

ジューディカーティの時代の4つの独立国

9世紀頃にビザンティンのコントロールがなくなっていくなか、次第にサルデーニャ島は4つの独立国、つまり、カリアリ王国、アルボレア王国、トーレス王国、ガッルーラ王国へと編成されていきました。

カリアリ王国(1000年頃から1258年)

現在のサルデーニャ州の州都であるカリアリを含むサルデーニャ南部も4つの独立国のひとつで、カリアリ王国と呼ばれていました。首都は現在のカリアリ中心地から 4kmほど北西の海沿いにあるサンタ・イジア Santa Igia という場所にありましたが、ピサ人が破壊したため、町は残っていません。

1216年にカリアリのジューディチェは、ピサの商人の何人かをカリアリの丘の高い部分、つまり現在のカステッロ地区で仕事をすることを認めました。1200年代の前半にはピサの権力はとても強いもとのなり、カリアリ王国の権限を弱めてしまいます。そして1258年に、ピサの軍隊は首都であったサンタ・イジアを破壊し、カリアリ王国は滅亡し、カリアリは、ピサ共和国が支配することなりました。

ガッルーラ王国(1000年頃から1296年)

ガッルーラ王国についての11世紀の記録はほとんどないのですが、12世紀頃からの記録が残っています。その中で最も有名なのは、サルデーニャ島で王座についた初めての女性であるエレナ女王であろう。

1203年、父であるジューディチェ(王)、バリソーネ1世が亡くなると、教皇インノケンティウス3世と母親の庇護のもと、13才でジューディチェッサ(女王)となります。若い女王のもとには、たくさんの求婚話が舞い込む。そのなかでエレナが夫に選んだのは、トスカーナの有力ファミリー、ヴィスコンティ家のランベルト・ヴィスコンティ。ガッルーラ王国もラコン・グナーレ Lacon Gunale ファミリーに属していたが、歴代ジューディチェたちは、ピサ共和国との関係を強く持っていた。1207年、エレナは、ランベルト・ヴィスコンティと、オルビアのサン・シンプリーチョ教会で結婚する。11世紀に建てられたサン・シンプリーチョ教会は、現在でもオルビア市民の最も重要な教会として親しまれています。また、教会の下には1700年前のネクロポリがあり見学することができます。

サンシンプリーチョ教会 オルビア ロマネスク建築
11世紀に建てられた、サン・シンプリーチョ教会 この日は結婚式が行われていた

エレナはランベルト・ヴィスコンティとの間に息子ウバルド2世 Ubaldo II Visconti di Gallura(1207-1238)をもうけるが、1218年28歳の若さで亡くなる。分娩時になくなったと推測されている。

ニーノ・ヴィスコンティの家
テンピオ・パウザーニアにあるニーノ・ヴィスコンティの家。ニーノがジューディチェだった時には、もっと広かったと言われているが、現在は1700年代の建物に取り囲まれるように建つ。

そして、ガッルーラ王国で、もう一人有名な人物は、ダンテの神曲にも登場する、ニーノ・ヴィスコンティ(1265-1296)。ニーノ・ヴィスコンティは、1275年にガッルーラ王国のジューディチェ(王)となった人物。

ニーノ・ヴィスコンティが、ダンテの神曲の煉獄第8曲に描かれている部分を抜粋してご紹介したいと思う。

夕暮れの薄闇のなかでも、ダンテは、友人、ガッルーラ王国のジューディチェ、ニーノ・ヴィスコンティに気づく。ニーノは、ダンテに彼と彼の娘のジョヴァンナのために贖罪と冥福を祈るように頼み、妻のベアトリーチェ・デステのことを嘆いた。もう、ニーノのことを愛していないと。ベアトリーチェはガレアッツォ・ヴィスコンティと再婚してしまって、ベアトリーチェが亡くなるときは、もうピサのヴィスコンティの紋章のおんどりではなく、ミラノのヴェスコンティ家の紋章であるヘビが飾られるだろうと嘆いた。

ベアトリーチェの話になるとニーノは悲しげに悲嘆にくれた。ベアトリーチェのことを私の妻とは呼ばずに、娘(ジョヴァンナ)の母親と呼んだ。ニーノは、女性の気持ちは一定ではなく、移り変わることをとがめ、でも会話の最後には恨みや嫉妬は残さず、人生では起こりうることだからと言ったものの、忘れることのできないベアトリーチェを想い、憂鬱な気持ちのままだった。それに対して友人ダンテは、何も答えなかった。沈黙こそが唯一の励ましとなると思ったからだ。

1284年に、ピサ共和国は、メロリアの海戦 battaglia navale della Meloria でジェノヴァ共和国に打ち負かされる。2つの共和国は、地中海西部の交通のコントロールのため、争っていた。

このような中で、ピサ共和国は、直接ガッルーラ地方を占領する道を選びます。トスカーナのニーノ・ヴィスコンティの死後、ガッルーラ王国のジューディチェの称号は、ミラノのヴィスコンティ家へと移った。ミラノのヴィスコンティ家は、あまり熱心にガッルーラ王国を統治していなかったため、ガッルーラ地方を占領することは比較的簡単だったからです。

トーレス王国(1000年頃から1259年頃)

トーレス王国の首都は古代ローマ人がつくった港町ポルト・トーレスだったが、度重なるアラブ人の襲撃により、11世紀から12世紀頃、ポルトトーレスから50kmほど内陸に入った町、アルダラに首都を移転する。

古い資料によると、この王国は、ログ・デ・トーレス Logu de Torres (Regno di Torresの意味) と呼ばれていた。現在も使われている地名、ログドーロ Logudoro 地方は、これに由来する。

トーレス王国の重要な人物を少しご紹介したいと思います。

ゴナリオ2世

トーレス王国の重要なジューディチェの一人であるゴナリオ2世 Gonario II は、1113年頃 ログドーロ地方で生まれる。

幼少時代は、アルダラの宮殿で家庭教師から教育を受けて育つ。

ジューディチェの父、コスタンティーノ1世 Costantino I が亡くなった時はまだ未成年だったが、後見人などの擁護のもと、ピサの貴族、Ebriaci家で教育を受ける。そして、Ebriaciの娘、マリアと結婚する。

1130年から1131年にかけて、ゴナリオは妻マリアとともに、Ebriaci家の4隻のガレー船に守られながらサルデーニャ島へ帰ってくる。

ポルト・トーレスへ上陸すると盛大なフェスタが催され、ログドーロの王として認められた。

最初の数か月は、トーレス王国を強固にすることに努めた。

そして、義父の助けも受けて、ブルゴス Burgos に城を建設し、夏の間はしばしば、城に滞在した。 地理的にアルボレア王国からの攻めから守るために都合の良い場所だった。

この時代の最も重要な修道士であり神学者であるクレルヴォーの聖ベルナルド Bernardo di Chiaravalle(1090-1153) に出会った影響もあり、40才を過ぎると、現世のことに対する興味が薄れていった。そのため、聖ベルナルドが亡くなった年にジューディチの地位を捨てることを決め、息子のバリソーネ2世 Barisone II di Torres へ王の座を譲る。すでに寡夫であったゴナリオは1154年、フランスの聖ベルナルドのクレルヴォー修道院へ向かい、修道士となり1182年に亡くなるまでクレルヴォー修道院で過ごした。

晴れた日には、オルセイ湾とオリスターノ湾まで見渡すことができるという、海抜1083mにあるノストラ・シニョーラ・ディ・ゴナーレ教会 Nostra Signora di Gonare。言いつたえによると、ゴナーレ山にあるこの教会は、ゴナリオが建てたという。十字軍遠征から帰る途中に、オロセイ湾で難破したゴナーレの前に聖母マリアが現れて、ゴナリオ山を指した。そしてそこに聖母マリアに捧げる教会を建てるように言った。嵐はおさまり、マリアが導いて無事に戻ることができた。

ここは今でも、巡礼者が多く訪れる。3月25日の受胎告知のお告げの日には、ミサが行われ、25日のパンSu pane e vintichimbe (il pane del venticinque)と呼ばれるパンが巡礼者に配られる。

トーレス王国最後の悲しみの女王アデラシア

Adelasia di Torres(1207-1259)トーレス王国最後の女王 giudicessa アデラシア Adelasia di Torres はアルダラの王宮で1207年に生まれる。

父、マリアーノ Marianoはトーレス王国の軍隊があまり強くなかったので、勢いを伸ばしているピサ共和国に対抗するよりも、娘をガッルーラ王国の婿で、ピサのヴィスコンティ家の血を引くウバルド・ヴィスコンティ Ubaldo Visconti(エレナ・ディ・ガッルーラの息子)と結婚させて平和的に領土を守った方が得策と考えた。

同い年の二人は、二人ともわずか12才で、1219年サッカルジャ教会で結婚する。

サッカルジャ教会
サッカルジャ教会

1232年、ジューディチェであった父、マリアーノの死により、弟のバリソーネ3世 Barisone III (1221-1236) がわずか11才でトーレス王の王座につくが、4年後の1236年に何者かによって殺されてしまったため、アデラシアが女王となる。

しかし、1238年、夫のウバルドは高熱で31才で亡くなってしまう。

未亡人になった、アデラシアは、その地位を狙って多くの人が再婚相手候補として名を連ねた。

その中で、1238年、ローマ帝国皇帝の息子、エンツォ Enzo di Svevia(1220-1272) とアルダラのサンタ・マリア・デル・レーニョ教会 Santa Maria del Regnoで再婚する。

この時、アデラシアは31才、エンツォは18才だった。アルダラの王宮で新婚生活を行う予定だったが、エンツォはすでに商業の町として栄えていたサッサリの家 casa di re Enzo で過ごすことが多かったという。そして結婚して1年もたたないうちににエンツォは父の仕事を追い、アデラシアをサルデーニャ島へ残してイタリア本土へ行ってしまう。

1246年にアデラシアは教皇に、エンツォとの離婚を申請する。

跡継ぎの子供もいないアデラシアは一人寂しくブルゴス城 Castello di Burgos へ引きこもり余生を過ごす。補佐役がトーレス王国の統治をおこなった。1259年にアデラシアが亡くなると、トーレス王国も事実上滅びることとなる。

その後のエンツォはというと、父親であるローマ皇帝フェデリコ2世の右腕として、反教皇派として活躍したが、1249年に捕らえられ、23年間、ボローニャのエンツォ王宮 Palazzo Re Enzo に幽閉される。

エンツォ王宮 ボローニャ
エンツォ王宮

エンツォ王宮は今も、ボローニャ中心部に位置する立派な宮殿。しかも、待遇は王としての扱いを受けていたようで、様々な知識人との交流や女性の面会などの自由があり、ここで子供も3人(または4人)生まれている。捕らえられたまま、1272年に亡くなる。遺言としてサルデーニャ島の権利などを娘たちに遺したが、それらはもはや名目だけのものだった。

11世紀の終わりに、トーレス王国のジューディチェたちは、イスラムの侵略者から守る戦力と引き換えに、ピサ共和国とジェノヴァ共和国の有力なファミリーがトーレス王国に留まれるように認可した。

ピサのマラスピーナ家はボーザに町をつくり、マラスピーナ城を建てた。

ボーザ マラスピーナ城
ボーザの町の上にそびえるマラスピーナ城

また、ジェノヴァのドリア家は、現在のカステルサルドであるカステルジェノヴェーゼに居住した。海に面した岬の断崖の上という、戦略的にコントロールしやすい場所のため、支配者がかわると町の名前もかわった。

カステルサルド
カステルサルド

1200年代は、ピサ共和国とジェノヴァ共和国のファミリーは、地中海沿岸の商業で、ますますお金持ちになっていき、サルデーニャ島での領地を広げていった。

ピサ共和国とジェノヴァ共和国は、1259年のアデラシア女王の死後、弱くなっていたトーレス王国の領地を占拠した。

特に、13世紀には商業で栄えていたサッサリを政治や経済の中心地としていった。

農生産物の売買やあらゆる種類の手工業の工房が栄えた。

サッサリは、トーレス王国崩壊後、自治権を持ち統治者を選び、法律を制定した。法規はラテン語とサルド語で書かれた。イタリア北部中央部のコムーネのような自治権を持つようになっていった。

現在のサッサリはサルデーニャ島で2番目に大きな町となっている。

アルボレア王国(1000年頃から1420年)

アルボレア王国は4つのジューディカーティの中で最も長く続いた王国。

首都は現在は遺跡がのこるタロスであった。タロスはフェニキア人の時代から商業貿易が盛んで、豊富な農作物や麦、漁業や手工業もさかんだった。

しかし、タロスは海に面している町であったので、アラブ人の襲撃が激しく、1070年、時のジューディチェOrzocco de Zoriは、首都を現在のオリスターノであるアリスティアーネ Aristiane へ移すことを決め、住民全員がアリスティアーネへ引っ越した。 引き抜かれた木がアルボレア王国のシンボル。

マリアーノ2世

ジューディチェ、マリアーノ2世 Mariano II は、1241年から1297年までの50年間以上に渡る統治の間に、数多くの事業を行った。

オリスターノの町を取り囲む壁や塔を建設しオリスターノの町を要塞化し、陸及び海からの攻撃に備えた。なぜならば、1200年代の終わりには、カリアリ王国、トーレス王国、ガッルーラ王国は崩壊し、「外国人」の手に渡っていたからだ。

アルボレア王国のみが、サルデーニャの独立を守っていた。

町には城壁がめぐらされ、塔や3つの大きな門が町への主要なアクセスポイント築かれた。

城壁には、水が張られた堀が掘られた。水は、ティルソ川から引かれた。

現在は、これらの要塞のうち、サンクリストフォロの塔 Torre di San Cristoforo(通称、マリアーノ2世の塔 Torre di Mariano IIとも呼ばれる)しか残っていない。

中世には、この門が、オリスターノの町へ入れる北門であった。

要塞には、内部から外を見ることできる小窓や、敵に矢を放つことができる狭間がある。

また、ドリアノーヴァのサンパンタレオ教会 やズーリのサンピエトロ教会 San Pietro a Zuri を建てた。

アラゴンに封土として授けられたサルデーニャ島

1200年代の終わりのヨーロッパでの出来事はサルデーニャ島とも密接に絡んでいた。そして、そのことは、その先の数世紀間のサルデーニャ島の運命が仕向けられることとなる。

1297年、教皇ボニファティウス8世 papa Bonifacio VIII (1230-1303) はアラゴン王ジャコモ2世 Re d’Aragona Giacomo IIに、シチリアを放棄する(シチリアをフランスへ譲る)かわりにサルデーニャを取らないかともちかけた。

長い間、アラゴンとフランスはイタリア南部の君臨をめぐり争ってきた。そのため、教皇の勧めは、アラゴンとフランスの争いを終わらせるために双方を納得させるための最適な手段と考えられた。

中世の時代の教皇は、キリスト教徒全体の長のようであったため、王を任命したり、貴族の称号を与えたりすることができ、皇帝のようであった。

このようにして教皇はアラゴン王に、サルデーニャとコルシカ王の称号を与えた。

封土の譲与は教皇から言い渡され、1200年代の終わりのサルデーニャは、アルボレア王国と、ジェノヴァ共和国、ピサ共和国の手にあったが、1323年、アラゴン国王ジャコモ2世の息子のアルフォンソの軍隊がスルチスの沿岸に上陸し、サルデーニャ島を征服し始めた。

アラゴン

1300年代の初めは、アラゴン王国の領地は、地中海に面したアラゴンとカタロニア、そしてバレアレス諸島だった。地中海交易で豊かになったため、凄い勢いで勢力を伸ばしていて、サルデーニャ島とシチリア島への領土の拡大に関心を示していた。なぜならば、東方へのルートの接岸可能地点として重要な場所だったからだ。

しかし、教皇ボニファティウス8世の封土譲渡にもかかわらず、アラゴンはコルシカ島には興味を示さなかった。そのため、コルシカ島は、ジェノヴァ共和国とピサ共和国が争って求め続けることとなった。

1323年からの数年間で、アラゴンはカリアリ王国、トーレス王国、ガッルーラ王国であった土地を占領した。アラゴン占領前は、ピサ共和国とジェノヴァ共和国の手にあった場所だ。

アルボレア王国だけが、自由を守っていた。

つまり、1300年代のサルデーニャ島は、2つの国に分かれていた。

ひとつは、オリスターノを首都とするアルボレア王国。アルボレア王国は政治的に安定しており、経済も潤っていた。アルボレア王国の領地は、現在のオリスターノ県とほぼ同じだ。

もうひとつは、アラゴンによって支配されていたサルデーニャ王国で、カリアリが首都であった。

そして1400年代の初めになると、10年間に渡って続いた戦争によりアルボレア王国はアラゴンに敗北。アルボレア王国もアラゴンの支配となり、サルデーニャ島全体がイベリア半島の巨大な権力の支配下となった。

アラゴンの襲撃

ジャコモ2世 Giacomo II の息子のアルフォンソは、1323年に、カリアリを襲撃するために、サルデーニャ島南西部に上陸。ヴィッラ・ディ・キエーザ Villa di Chiesa (現在のイグレシアス)を攻撃。

1324年、アラゴンはさらに、Lutocisternaの戦い(現在のカリアリ空港の辺り)で、ピサ共和国を破った。そしてカリアリを手中に収めた。

アラゴンは、カリアリの町の一部をピサ共和国に残した。ピサは安定した重要な商業活動を行っていたからだ。

しかし、ピサが治めていた他のカリアリとガッルーラの領地を没収。

同じことが、短期間、旧トーレス王国の領地を治めていたジェノヴァ共和国に対しても行われた。

しかし、アルボレア王国の境界線は守られた。

サルデーニャ島の領地はいくつかに分けられ、アルフォンソ王の仲間の貴族たちに分け与えられた。

そして、伯爵、男爵、侯爵の身分がつくられた。これらの伯爵、男爵、侯爵の地位は、アラゴン王国のそれぞれの地位に相当した。

アラゴン王は貴族たちに、分け与えた領地を統治し、富を所有することを認めた。

その代わりとして貴族たちは、アラゴン王に毎年税を払い戦争の際は軍を助けた。

このようにして、サルデーニャ島にも、中世のヨーロッパで行われていた封建制度が初めて導入されていった。

数世紀にわたってサルデーニャ人によって築かれていた社会的経済的発展は、だしぬけにさえぎられることとなった。

マリアーノ4世

1335年にウゴーネ2世 Ugone II が亡くなると、アルボレア王国の王位は、ピエトロ3世 Pietro III そして、マリアーノ4世 Mariano IV へと移った。

マリアーノ4世 Mariano IV (1317-1376)は、中世のサルデーニャで最も重要な人物の一人だ。

マリアーノ4世の在位は、1347年から1376年の30年間。その時代のヨーロッパの重要人物と関係を持ち続けた。

土地や農民と牧畜家のややこしい関係を管理運営する法規 codice を制定した。また、アラゴン王国がアルボレア王国の上にたつことを阻止した。

この2つの王国の関係はやがてもつれ、戦争を引き起こした。

アルボレア王国とアラゴン王国の戦いは、1353年に始まった。

アルボレア王国の旗の下には、わずか数年の間にサルデーニャ中から多くの兵士が集まった。サルデーニャ人の兵士の目的は、サルデーニャ島を征服した外国人、つまりアラゴン軍を打ち負かすことだった。

アルボレア王国紋章
アルボレア王国の紋章

アルボレア王国の紋章には、引き抜かれた木が描かれている。引き抜かれた木は、誰にも依存しない独立を象徴している。

アラゴンとの戦争は数十年間続き、最初は、アルボレア王国が優勢であった。勝利に次ぐ勝利で、アルボレア王国の領土は、ほぼサルデーニャ島全体に及んだ。アラゴンは、カリアリとアルゲーロの要塞のみであった。

1376年 サルデーニャ島地図
1376年、アルボレア王国のジューディチェ、マリアーノ4世が亡くなった時のサルデーニャ島。青い部分が、アルボレア王国。赤い部分が、アラゴンの支配するサルデーニャ王国。アラゴンの支配は、カリアリとアルゲーロの要塞内のみであった。

マリアーノ4世後の王位継承

マリアーノ4世が1376年にペストで亡くなると、アルボレア王国の王位は、息子のウゴーネ3世が引き継ぐこととなる。

ウゴーネ3世(1337-1383)もアラゴンとの戦争を続けるが、理由はわかっていないのだが、人々の信頼を失っていく。1383年には娘のベネデッタ(1365-1383)とともに殺害され井戸に捨てられる。

王位は、ブランカレオーネ・ドリア Brancaleone Doria と マリアーノ4世の娘でウゴーネ3世の妹のエレオノーラ Eleonora の息子、フェデリーコ(1377-1387)に渡るはずだが、この時は、フェデリーコはまだ6歳であったため、エレオノーラが摂政にあたる。

フェデリーコは10才で幼くして亡くなり、王位はエレオノーラの次男マリアーノ5世(1378頃-1407)へと渡る。しかし、マリアーノ5世(在位 1387-1407)も9才前後と幼かったため、母親のエレオノーラが摂政を務めることとなった。エレオノーラの摂政は、およそ20年間以上に及ぶこととなる。

エレオノーラ(1347-1403)は、精力的に摂政を行い、根本的な対策を行った。サルデーニャの歴史上最も重要な人物のひとりであり、ヨーロッパでも突出した女性のひとりであった。さて、どんな人物であったかみてみよう。

エレオノーラ

サルデーニャの著名な歴史学者、言語学者であり行政官、政治家であった、パスクアーレ・トーラ(1801-1874) は、エレオノーラをこう表現している。「類まれな女性の美徳と、政治的、軍事的政治的手腕に長け、民衆を統治する雄々しい理性を併せ持った女性。彼女の生きた時代には、貴重な、並外れた女性である。」

1383年、エレオノーラが政治を支えるように頼まれた時、サルデーニャ島の状況はペストが猛威を振るう劇的な時代であった。

また、男たちは畑仕事を投げ出して、マリアーノ4世のもとにアラゴンとの戦争のために集結したため、人々は飢えに苦しんでいた。

つまり、サルデーニャ島の大地は耕されず、食料不足だった。エレオノーラの夫のブランカレオーネ・ドリアはアラゴンに捕らえられており、人質となっていた。

この難しい状況を打破するために、エレオノーラはアラゴンとの戦争を中止することを受け入れた。

1388年、エレオノーラとアラゴン王ジョヴァンニ1世 Giovanni I は、エレオノーラの父、マリアーノ4世が占有していた土地をアラゴンに返し、もともとあった、アルボレア王国の領土のみをアルボレア王国が統治することに署名した。

しかし、1390年にはオリスターノの人々が、ブランカレオーネ・ドリアの解放を求め再びアラゴンとの戦争が始まった。

エレオノーラもまた、ペストに倒れ、1402年に亡くなる。

エレオノーラ アルボレア王国
カルタ・デ・ログを手にしているエレオノーラ

エレオノーラが行った偉大な業績の一つに、1392年に父親が公布した法規を改編して、新しいバージョンの法規、カルタ・デ・ログ・ダルボレア Carta de Logu d’Arborea を発布したことが挙げられる。

カルタ・デ・ログ

なぜ、こんなにもカルタ・デ・ログが有名で評価されているかというと、それは、現代の私たちの時代にも通用するような現代的な法典だからだ。

刑法の1つの条項には、こう書かれている:「全ての人々は、法の下では平等である。」実際、法に背いた人は、社会階級に関係なく、同様の罰則を科された。貴族や聖職者が我が物顔で振る舞っていた中世の時代には、革命的な出来事であった。

農業の保護に関する法律も興味深い。これらの措置は、高い品質を保証し保つために、また、アルボレーアの財源を守るためにぴったりであった。以下に、これらの規定の引用の一部を紹介する。

「いかなる状況のすべての人々に通達する。未耕作のワイン用ブドウ畑を所有している者は、地区の所轄事務所の規定により、1年以内にブドウの木を植えなければならない。もしくはブドウの木を植える意志のある第3者に売却または、譲渡しなければならない。さもなければ、ブドウ畑は没収される。」「他人のブドウ畑をひそかに伐採した者は、50スクードの罰金を科する。15日以内に罰金を払わなければ、右手を切断される判決が下されるだろう。」「ワインを運送する馬車引きによる不正行為をやめさせるために、今後、運送中に、栓を抜いてワインを出したり、不正に樽口からワインをくみ出したり、所有者の許可なく誰かに与えたりすることを禁止する。」「さらに、ワインを水で薄めたり、他のものを混ぜて変質させることを禁止する。そのような行為を行った者には、100ソルド(5リラ)の罰金を科する。」

また、中世の、女性は男性に服従しなければならなかった時代に、女性の保護に関する法律があるのも画期的だ。

マリアーノ4世により発布され、1392年にエレオノーラによって改編された法典は、数世紀にわたる全てのスペイン占領時代、そして、その後のピエモンテによる支配の初めまで、用いられた。

1827年にサヴォイア家のカルロ・フェリーチェの法規 Codice di leggi civili e criminali del Regno di Sardegna と入れ替えられる前まで、カルタ・デ・ログの法律が有効とされたのだ。

ログ Logu という言葉は、中世のサルデーニャではジューディカーティの王国を示していた。

カルタ・デ・ログは、王国の法典という意味だ。カルタ・デ・ログは中世のサルデーニャ島で最も有名な法典である。

サルデーニャ島のそれぞれの王国は、それぞれサルド語で書かれた法典を持っていた。しかし、現在我々が持っている法典の完全版は、アルボレア王国の法典のみである。カリアリ王国、トーレス王国、ガッルーラ王国の法典は、一部のみが残っている。

この違いの理由は容易に想像できる。アラゴンが占領したあとは、アラゴンは、それまでのサルデーニャの文化、習慣の痕跡をことごとく消し、破壊しようとしたのだ。これには、文書類も含まれる。

しかし、アルボレア王国が崩壊したときは、このカルタ・デ・ログの法律をサルデーニャ島中に有効とすることを決めたのだ。

アルボレア王国の終焉

マリアーノ5世は、1408年に、跡継ぎの子供がいないまま亡くなった。そのため、アルボレア王国は、フランスに住むグリエルモ・ディ・ナルボーナ Guglielmo di Narbona をジューディチェとして呼びよせた。

グリエルモはフランスの貴族で、エレオノーラの姉のベアトリーチェの孫。エレオノーラの姉のベアトリーチェは、フランスの大金持ちで封建領主の Amerigo VI di Narbona と結婚していた。

アラゴンがアルボレアの難しい後継者選びをしているスキを狙おうとしたが、アルボレアの新しい国王は、長旅の後、オリスターノに着くと、敵に戦いを挑むことを躊躇しなかった。

しかし、1409年6月30日に、サンルーリの近くで起きた戦いでアルボレア軍は、マルティーノ1世率いるアラゴン軍に敗北。サンルーリ城では、アルボレアの兵士たちが逃げ込み殺された。

カリアリドゥオモ
カリアリ大聖堂にあるマルティーノ1世の霊廟

1409年6月30日のサンルーリの戦いに勝利したマルティーノ1世は、しかし、その後その勝利から1か月もたたない7月25日にマラリアにかかり亡くなる。

1420年、およそ500年間続いたアルボレア王国は消滅。アラゴンの支配となる。

スペインの支配

1469年のアラゴン王フェルディナンド2世とカスティリア王国の女王イザベッラとの結婚は、スペイン王国(カスティーリャ=アラゴン連合王国)の起源となった。全ての王国は、二人の王の下にあった。アラゴンに支配されていたサルデーニャ島も然りであった。スペイン王国は占領した領土を統治し、税をかけ、王の名のもとに法律を適用した。

重要な町は、封土として授けられず、 チッタ・レジエ Città Regieと呼ばれた。チッタ・レジエ Città Regieは、カリアリ、サッサリ、アルゲーロ、ヴィッラ・ディ・キエーザ(現在のイグレシアス)、ボーザ、カステルアラゴネーゼ(現在のカステルサルド)、オリスターノの7つの町であった。

サルデーニャ王国の首都はカリアリで、ヴィチェレ(副王)viceréが住んでいた。副王は王によって任命され、スペインの権力のもと統治されていた。スペインの支配は1700年代のはじめまで、およそ400年にもおよんだ。

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