ヌラーゲ文明以前のサルデーニャ先史時代 サルデーニャ島の歴史①

ドームスデヤーナス サルデーニャ島の歴史

先史時代の長い期間、サルデーニャ島には人は住んでいませんでした。

サルデーニャ島へ人がやってきたのは、骨や人が使った石などの道具から45万年前と考えられています。

どのようにして人はサルデーニャ島へたどり着いたのでしょうか?

大昔は、地中海の海面は現在よりも、もっと低い位置にありました。つまり、大昔には陸地だったところが現在は海の下にあるのです。

例えばイギリスはヨーロッパ大陸とつながっていて、シチリアもイタリアとくっついていました。

最終氷期(7万年前から1万年前まで)の最もピーク(最終氷期極大期)の2万年前は、現在よりも120m 水位が低かったため、サルデーニャ島とコルシカ島は地続きでした。

サルデーニャ島はコルシカ島とくっついて一つの島となっており、イタリア本土ととても近かったのです。
地中海は小さく、ヨーロッパ大陸から船で、サルデーニャ島とコルシカ島へやってきたと考えられています。

サルデーニャ島では、2万年前のホモサピエンスサピエンスの跡がオリエーナ近くのコルベッドゥ洞窟grotta Corbedduで発見されてます。コルベッドゥ洞窟では、ヒトが食べた動物の骨や、骨や石でつくられた道具が発見されています。

サルデーニャ島の先史時代はとても長かったので、以下のように分けられます。

  • ヌラーゲ文明前の時代(旧石器時代、新石器時代、銅器時代)
    Prenuragico (Paleolitico, Neolitico ed Età del rame)
  • ヌラーゲ文明時代(青銅器時代、鉄器時代)
    Nuragico (Età del bronzo ed Età del ferro)

新石器時代 : 紀元前6000年頃からは、サルデーニャ人は羊やヤギを飼い、小麦を栽培し始めた。最初の陶器も現れた。
洞窟に住むのをやめ、カパンナ(小屋)に住むようになった。
カパンナの基礎は石で、地面からの湿気を防いだ。骨組みは木で、壁は、葦と泥でできていて、乾くととても固くなった。屋根は木、葦、泥で作られていた。カパンナの内部には、炉があり、料理をしたり暖を取ったりした。
遊牧生活をやめ、何人かのグループで定住するようになり、集落ができ始めた。

銅器時代 : サルデーニャの銅器時代の始まりの時期は学者によって紀元前3500年から紀元前2700年頃と幅があるが、サルデーニャ島では金属を使うことが広まった。

青銅器時代 : 紀元前1600年頃には、最初のヌラーゲが現れた。

今回は、新石器時代以降のヌラーゲ文明以前のサルデーニャ先史時代(紀元前6000年から紀元前1600年)の建造物やアートについて書きたいと思います。

デア・マードレ Dea Madre

デア・マードレは、そのふっくらとした女性の形状から豊穣のシンボルであり、サルデーニャ島の人々に長い間敬愛されてきました。

地中海沿岸各地にデアマードレ(地母神)がありますが、サルデーニャ島のデアマードレは、高さ10~15cmほどの女性の彫刻で、多くは、墓地から埋葬品とともに発掘されています。死者は母なる大地へ降ろされ、地下墓地は産みのシンボルである胎内に例えられました。

デアマードレ
デアマードレ

カブラス近くのネクロポリで1970年代に発見されたデアマードレ。
カリアリの国立考古学博物館に保存。
紀元前4800年から紀元前4450年頃のもの。
とてもふっくらとした体形の女性が入念な彫刻で表現されている。耳を覆うエレガントな飾りをつけている。

ドームス・デ・ヤーナス domus de janas

ドームス・デ・ヤーナスは、およそ5千年前の死者の家、つまりお墓なのだが、限りなく生きている人の家に似ている。岩をくりぬいたものと、地下の土を掘ったものがあり、洞窟の内部は、まるで家のようなつくりになっている。その時代は、死者をとても敬っておあり、死者と生きている人との関係がもっと近かったと考えられている。

ドームスデヤーナス

ドームス・デ・ヤーナスは、ドームスが家、ヤーナスが妖精という意味で、直訳すると妖精の家となるが、もちろん妖精が住んだことはなく、その言葉は、太古からの言い回しであり、集合墓地である。サルデーニャ島中におよそ3500のドームス・デ・ヤーナスがあると言われている。

ボノルヴァBonorvaのドームス・デ・ヤーナスのように、いくつかの部屋に分かれている場合も多い。

メンヒル i menhir

長い巨石が地面に突き刺さっているものをメンヒルという。ヨーロッパの多くの地域と同様に、サルデーニャ島でも大きな石を用いた巨石文化が広まった。
メンヒルはブルターニュ地方の言葉で、長い石という意味。
周囲が四角形のものと丸みを帯びたものがある。
通常、上部にいくほど細くなり、6メートルもの高さのものもある。
一つだけポツンとある場合もあるし、いくつもグループになってある場合もある。
何のためにメンヒルが置かれたのかは未だに謎に包まれているが、宗教的な意味合いがあったものと考えられている。

ドルメン i dolmen

ルーラスの近くにあるドルメン Dolmen Ladas 紀元前3000年頃

ドルメンは、石のテーブルという意味を持つ、巨石でできた先史時代の埋葬地である。一人または複数の人が埋葬され、おそらく身分の高い人が埋葬されたと考えられている。ヨーロッパ大陸からもたらされたものと考えらており、サルデーニャ島に最初のドルメンがもたらされたのは、紀元前4000年から紀元前3200年頃。

大きな2枚または2枚以上の大きな石の板が壁となり、上に、1枚または1枚以上の大きな石の板で覆いがされている。
ドルメンは通常、土で覆われていた。

ドルメン Sa Coveccada
Sa Coveccada

サルデーニャ島で最も大きいドルメンと言われているサ・コヴェッカーダ Sa Coveccada は、高さ2.7メートル、長さは5メートル。

メンヒル像 Le statue-menhir

銅器時代(紀元前3000年から紀元前1600年)には、サルデーニャ人は金属を用いていた。
この時期のメンヒルには彫刻がほどこされている。

サルデーニャ島中部の小さな町、ラコニには、多くの貴重なメンヒル像を保存しているメンヒル博物館がある。1800年代にガエターノ・チーマによって新古典主義様式で建てられた、アイメリック侯爵の住居であったパラッツォアイメリックがメンヒルの博物館となっている。

メンヒル像

人間がさかさまになった様子が彫られている。亡くなった人の魂があの世へ行くために、頭を下にして大地に飛び込んでいる様子なのではないかと考えられている。
下部には、短剣が彫刻されている。
研究者によると、短剣は、権力と力の象徴で、部族の長や戦士だったのではないかと考えれられている。

モンテ・ダッコディ Monte d’Accoddi

サルデーニャ島北西部の町、サッサリの近くにある銅器時代のなぞの遺跡。

モンテダッコーディ Monte d’Accoddi

研究者によると、モンテダッコディは、太陽とデア・マードレに捧げられた、宗教的神殿であったと考えられている。37メートル x 30メートルの基部に、10メートルの高さのところに長方形のテラス状のものがあり、長さ25メートル坂道状の階段を登ってアクセスする。

紀元前3020年から紀元前2860年頃にかけてもともとあった聖なる場所の上に高さ5メートルの長方形の台座を建設。
台座の上には、赤く塗られた礼拝堂があったため、赤い神殿と呼ばれた。
その後、おそらく火事によって建物は崩れたため、紀元前2590年頃、新たに神殿が建設されたが、現在は、神殿は残されていない。

この近くで、メンヒルが一つ、動物の生贄を捧げるための石のテーブルが一つ、丸いかたちの石が一つ、そしてたくさんのデア・マードレが発見された。

モンテ・ダッコディは、本来はもっと高かったと考えられている。そして、最も高いところに、祭司が儀式を行う祭壇があった。

モンテ・ダッコディの下には、祭司たちが住むカパンナや、サルデーニャ中から宗教的祭りのためにやってくる人々のためのカパンナがあった。

サルデーニャ島には、モンテ・ダッコディのような神殿は他には存在しない。サルデーニャ島のジッグラトとも考えられている。

アジアで似たような神殿があるため、その時代のサルデーニャ人は、アジアの人々ともコミュニケーションをとっていたのではないかと考えられている。

ただし、現在のイラクにあるウルのジッグラトは、紀元前2100年頃のもの。サルデーニャ島のモンテダッコーディは、紀元前3020年から紀元前2590年頃にかけてのものと推定されているため、サルデーニャの”ジックラト”の方が古いことになる。

サルデーニャ島の歴史②に続きます。

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