フェニキア人、カルタゴ人、ローマ人 サルデーニャ島の歴史③

タロス遺跡 サルデーニャ島の歴史

今回は、紀元前1000年頃から紀元455年までのサルデーニャ島の歴史について書こうと思います。

サルデーニャ島の歴史②で、少し書きましたように、紀元1000年頃からフェニキア人は交易のためにサルデーニャ島へたどり着いていました。

フェニキア人とは

フェニキア人は地中海東部沿岸、現在のレバノンに住んでいました。

フェニキア文明の最盛期は紀元前1200年から紀元前700年頃。
最盛期のフェニキア人はとても豊かでした。フェニキア人は沿岸部に住み、海運交易で栄え、地中海の物流を完全に支配していました。

航海のエキスパートであり、公海や夜の海を航行し、地中海沿岸の民族と品物の交換や売買を行っていました。木材や金属、麻や毛の織物、陶器、宝石を売って、彼らの持っていないものを入手していたのです。

さらに、フェニキア人の祖国から遠い土地に拠点を構えました。フェニキア人の町であったビブロス Biblo、シドン Sidone、テュロス Tiroを出発し、遠くまで航海をして居留地を築きました。

レバノンのフェニキア人の町とコロニー(居留地)の交易はとても盛んでした。
数世紀をかけて、フェニキア人は、スペイン、シチリア、アフリカ大陸北部沿岸へとても広い範囲にコロニーを築き上げました。地中海の真ん中に浮かぶサルデーニャ島ももちろん例外ではありませんでした。そして、フェニキア人の富は農業や牧畜、戦争によるものではなく、海上貿易によるものでしたので、サルデーニャ人とは、友好的で平和的な良い関係を保ちながら、サルデーニャ島のいくつかの沿岸部に居留地を築きいていきました。

サルデーニャ島のフェニキア人

既に紀元前1000年より前からフェニキア人はサルデーニャ島西部と南部にたどり着いていました。そして、他の地中海沿岸諸国に対するのと同様に、サルデーニャ人とも交易を始めました。フェニキア人は他の土地の征服には興味がなく、商品の交換のみに興味がありました。

時とともに、フェニキア人は次第にエンポリオ emporio、つまり倉庫のある小さな商業地と商人のための住居を築いていきます。
そして、いくつかのエンポリオは、祖国のレバノンを離れて多くの家族が移り住み町へと発展しました。

フェニキア人が好んでコロニーを築いた場所は、船が問題なく着岸できる波風から守られた小さな入り江またはラグーナがある海の岬で、このような条件の合うサルデーニャ島のいくつかの場所にフェニキア人のコロニーが誕生ました。

サルデーニャ島でフェニキア人がコロニーを築いた主な場所として以下の場所が挙げられます。

  • Karalis (現在の)カリアリ
  • Nora(現在の)プーラ
  • Sulki (現在の)サンタンティオコ
  • Tharros (現在の)タロス遺跡
  • Bithia(現在の)ドームス・デ・マリア
  • Othoca (現在の)サンタ・ジュスタ
サルデーニャ島フェニキア人の居留地

地中海沿岸にフェニキア人が築いたコロニーは、祖国のレバノンからの支配を受けることなく独立した自由な関係でした。彼らの言語や宗教、文化は移住先のコロニーでも用いられました。また、コロニーをつくった場所の原住民とフェニキア人の関係は友好的で平和的でした。フェニキア人の興味は、商業だけで、原住民を打ち負かして支配しようとは考えなかったからです。フェニキア人がサルデーニャ島へ定住してきた時期は、サルデーニャ島ではヌラーゲ文明が華開いていた最後の数世紀間でした。サルデーニャ人は農業や牧畜業、手工業に専念し、それらから得られたものをフェニキア人に売り、フェニキア人が持ってきたものと交換していました。自然に、2つの民族間での結婚もあり、結婚を通して、2つの民族は友好的に強い関係を築き上げたと考えられています。

また、ヌラーゲ文明との大きな違いは、家の形です。ヌラーゲ文明では、家は円形のカパンナであったが、フェニキア人の家は四角形。家を建てるときには、ヌラーゲ文明と違って、あまり大きな石を用いず、壁はしっくいを塗り、屋根は平でした。
また、ヌラーゲ文明とは死者の埋葬方法も違いました。死者は、火葬にされ、灰は骨壺に入れられました。

サルデーニャ島に文字がもたらされる

フェニキア人はサルデーニャに様々なものをもたらしたが、その中でも重要なことは、文字をもたらしたことです。
売買契約をしたり、商売をしたり、倉庫の在庫管理をするために便利だったからと考えられています。
フェニキア人の文字は最初は子音だけであり、右から左へ書きました。

フェニキア文字
ノーラの石碑 Stele di Nora
ノーラの石碑

ノーラの石碑 Stele di Nora と呼ばれるサルデーニャ島南部のノーラで発見された石碑があります。この石碑には、紀元前9世紀から紀元前8世紀の間に文字が刻まれたと推定されています。ノーラの石碑は、フェニキア文字の一つの例であり、内容は、商業に関することまたは神性に関することと推測されているのですが、はっきりとはわかっていません。しかし、3行目のSRDNは、サルデーニャSardegnaを意味しており、歴史上、文字として初めてサルデーニャという名前が書かれたということで、重要な石碑となっています。

カルタゴ人

フェニキア人とサルデーニャ人との関係は友好的で平和的であったのに対し、カルタゴ人は全く逆でした。このため、紀元前500年頃のカルタゴ人の到来とともに、ヌラーゲ文明が終わったとされています。

カルタゴ人はカルタゴ Cartagine(アフリカのチュニス付近)に住んでいたため、カルタゴ人と呼ばれますが、プニチ Punici ともよばれています。古代ローマ人が、カルタゴ人のことをプニチと呼んだからです。

カルタゴは北アフリカ沿岸部、現在のチュニスにあり、紀元前814年にフェニキア人によって設立されました。正確に言うならば、テュロス Tiro の町のコロニーとして建設されました。

カルタゴは、他のフェニキア人のコロニーと同様、海上貿易によって発展していました。

しかし、カルタゴが他のフェニキア人のコロニーと違った点があります。それは、彼らは豊かさだけでは満足せず、権力も欲したのです。このため、他の地中海西部のフェニキアのコロニーも支配下に置き、新たなコロニーをつくっていったのです。

フェニキア人のコロニーが、祖国へ依存せず自由な自治権を持っていたのに対し、カルタゴ人のコロニーは、自由な自治はなく、カルタゴの意見に従わなければなりませんでした。

そして、カルタゴ人はコロニーとした領土とそこに住む原住民を支配し、原住民の富をも搾取したのです。

このようにして、カルタゴ人は西地中海全体を支配し、大帝国をつくりました。そして、地中海の覇権をめぐってもうひとつの巨大権力をもつ共和政ローマと戦うこととなります。これが、紀元前264年から紀元前146年のポエニ戦争です。

カルタゴ
緑色の部分がカルタゴの支配

サルデーニャ島のカルタゴ人

紀元前600年ごろ、カルタゴ人はサルデーニャ島に上陸。
初めは沿岸部に住んでいたフェニキア人と交戦しました。
多くのフェニキア人の町が破壊され、また、いくつかのフェニキア人の町は、カルタゴと同盟を結び破壊を免れました。

紀元前540年には、カルタゴ人はサルデーニャ人と戦いが始まります。いったんは、カルタゴの将官Malcoを追い返しますが、紀元前509年、サルデーニャ島はカルタゴの支配となります。なぜ、紀元前509年かというと、カルタゴとローマは、ローマ人がサルデーニャ人と交易をおこなう場合は、カルタゴの上級職員が立ち会うことという協定を紀元前509年に結んだことによります。
このことにより、多くの研究者が紀元前509年にヌラーゲ文明が終焉を迎えたとしています。

また、モンテ・プラマの巨人は、カルタゴ人によって破壊されたのではないかと推測されています。
カルタゴ人は、征服した自分たちと違う文明を消し去るために、サルデーニャ人の誇りと尊厳を破壊したと考えられています。このようにして、サルデーニャ人に、サルデーニャ人は自由ではなく、支配者がいるということをわからせたかったのです。

フェニキア人が設立した町に加えて、カルタゴ人は新しい町もつくりました。

  • Cornus (現在の)サンタ・カテリーナ・ディ・ピッティヌーリ
  • Neapolis (現在の)グスピニ
  • Macopsissa (現在の)マコメール

それぞれの町は、互いに親密な関係にあり、それぞれの町が役割を持っていた。
カリアリは、エトルリアやイタリア本土への輸出。
サンタンティオコSulkiはサルデーニャ島の鉱物を北アフリカへ船積みし、タロスからは、イベリア半島やガリアへの商品を積んだ船が出港した。
タロスは、サルデーニャ島の軍総司令官の本拠地であった。

カルタゴ人のコロニーは、二人のsufetiと呼ばれる統治者によって治められていました。
カルタゴ人のコロニーもまた、フェニキア人の町のように、海の岬に建設されました。
町には居住地区があり、道に面して商店が立ち並んでいた。公共の建物や市場もあった。
家は、2階以上の建物でした。
最も重要な神殿は町の最も高い場所に建てられました。神殿は四角形で、内部には祭司のみが入れる小さな部屋が2つあった。そこには、神様の聖画があり、捧げものの動物を生贄にするための祭壇があった。捧げものの動物の肉は、信者たちで食された。
居住地区は壁で境界を設けてあり、壁の外はネクロポリとトフェト tophet があった。トフェトは、幼くして亡くなった子供の埋葬場所で、遺体はトフェトの神殿で火葬にされ骨壺に納められました。
ネクロポリは共同墓地で、岩を掘った地下にありました。

トゥイジェッドゥ Tuvixeddu は、カルタゴの地中海沿岸のネクロポリで最も大きいもののひとつ。

トゥイジェッドゥ Tuvixeddu
トゥイジェッドゥ

カルタゴ人がサルデーニャ島を征服した時、カルタゴ人の商人がサルデーニャ島の政治も担いました。また、軍事や聖職者の職もカルタゴの商人が行いました。
サルデーニャ人の多くは、農業や牧畜、手工業に従事した。特にサルデーニャ島では、小麦の生産が豊富だったので、サルデーニャ産小麦は、船積みされてカルタゴへ輸送されました。
カルタゴ人は、征服した土地で採れたものはカルタゴへと持っていくものとし、サルデーニャ人には小麦だけを栽培するように命じ、果物の木を植えることを禁じたほどだったといいます。
鉱物に関しても同様でした。サルデーニャ島は、鉛と鉄が豊富だったので、これらは、カルタゴへ持っていかれました。

カルタゴ人とサルデーニャ人の融合

カルタゴ人のコロニーは、その内部で閉じられたものではありませんでした。初期の難しい時期を乗り切ると、次第にカルタゴ人とサルデーニャ人は融合していきました。

デア・マードレへの信仰は、豊穣と愛の神であるカルタゴのタニット神 dea Tanit へ変化するなど、宗教も次第にカルタゴの宗教にかわっていきました。

タニット神 Tanit
ノーラで発見されたタニット神が彫られた石碑

サルデーニャ人とカルタゴ人の融合はカルタゴ人の持ち込んだ硬貨にも表されています。
カルタゴ人はサルデーニャ島に硬貨を導入したが、コインの片面は、Tanit神の頭、つまりカルタゴ人の神様を刻み、もう片面は3本の麦の穂、つまりサルデーニャ島の農産物を表したコインがトゥイジェッドゥで発見されました。

本当のところ、カルタゴ人はサルデーニャ島の全域を支配したことはありませんでした。カルタゴ人の支配の初めは、サルデーニャ島沿岸南部および西部、そして平野のみを支配したのではないかと考えられています。そして、サルデーニャ島北東部のオルビアを含む、海岸部を全て支配したが、サルデーニャ島の山間部のバルバジア地方やゴチェアノ地方は、ヌラーゲ文明の子孫たちのサルデーニャ人が領域を守っていました。

サルド・プニチと、山間部のサルドはしばしば、戦いを起こしましたが、その他の時期は、物々交換をしたりしていたと考えられています。バルバジア地方で、カルタゴ時代の硬貨が発見されていることから、そのようなことがわかるのですが、実際には、文献がないために、山間部のサルデーニャ人がどのような暮らしをしていたのかははっきりとわかっていません。

カルタゴ時代のアート

オルビアの首飾り

オルビアの首飾り collana di Olbia
オルビアの首飾り 紀元前300年頃のもの

1937年、サルデーニャ古代文化保護局は、オルビアのフォンターナ・ノア地区の発掘を行った。

指揮にあったったのは、国際的に有名な考古学者、ドーロ・レーヴィ。ドーロ・レーヴィ氏は、トリエステ出身のユダヤ人であった。この発掘で多くの埋葬場所が発見された。

紀元前4世紀から紀元前3世紀の墓では、有力なファミリーであったと推測される女性の遺骸が埋葬道具とともに発見された。フェニキア人の時代と違って、カルタゴ人は土葬であった。女性と一緒に埋葬されていたものは、いくつかの取ってつきの壺、カルタゴの硬貨、そして青銅の鏡が胸の上に置かれていた。鏡は、渦巻き模様と女性の顔で飾られており、とても高貴なもので、おそらくマグナ・グラエキアMagna Greciaのものだったと推測されている。

そして、首には、ガラス粉でできた首飾りがつけられていた。ネックレスは、一人の女性の顔、四人の男性の顔、羊、おんどり、筒状や球状のチャームがついており、どれもカラフルで現在の私たちが見てもユニークで可愛らしいネックレスだ。首飾りは、悪い霊を遠ざける厄除けの意味があり、亡くなった女性を悪い霊から守る役割を持っていた。

この発見を聞きつけて、すぐにヘルマン・ゲーリング Hermann Göring がサルデーニャにやってきた。ヘルマン・ゲーリングヒットラーの右腕であり、大の美術品収集家であったため、オルビアの首飾りを欲した。しかし、当時カリアリ大学の考古学と歴史の教授であったドーロ・レーヴィは彼の持ちうるすべての力を駆使して、このオルビアのカルタゴ時代の首飾りがナチスの手に渡るのを阻止した。ユニークなオルビアの首飾りにはそんな逸話もあります。

あざ笑う仮面

あざ笑う仮面 カブラス
歯のあるあざ笑う仮面

紀元前6世紀から紀元前4世紀のもの。
タロス遺跡で発見された歯のあるあざ笑う仮面。
額と頬には刺青。

この独特な表情の仮面は、死者の眠りを邪魔する闖入者を驚かす役割があった。
仮面の両端には穴があることから、そして、目、鼻、口の開口部があることから、祭司が仮面をつけて儀式を行ったのではないかとも推測されている。

ローマ人の支配

古代ローマとは、伝説によるとテヴェレ川沿いで紀元前753年に始まり、次第に領域を広げていき、紀元前270年頃には、イタリア半島のエミリアロマーニャからカラブリアまでを支配していた。そして、地中海西部のコントロールをめぐり、サルデーニャ島も支配していたカルタゴと対抗することとなる。

第一次ポエニ戦争(紀元前264年から紀元前241年)後の紀元前238年に、サルデーニャ島は古代ローマの支配となり、紀元前227年には、サルデーニャ島は古代ローマのプロヴィンチャ(県)の一つとなりる。

古代ローマが、本土から派遣したプラエトル(法務官)が、政治および軍のトップとり、サルデーニャ島を統治した。

紀元前1世紀地中海地図
紀元前1世紀頃の地中海、緑色の部分が古代ローマの支配地域

古代ローマ人は、サルデーニャ島を征服した土地として扱った。税は重く、サルデーニャの小麦、牧畜から得られるもの、木材、塩、鉛、鉄、銀などを搾取し、サルデーニャ人の生活は苦しかった。そのため、多くの反乱がおきた。

研究者によると、紀元前216年には、Cornus(現在のSanta Caterina di Pittinuri)の大地主のAmpsicora率いるサルデーニャ人とローマ人が、San Vero Milis とSanluriで戦い、12000人のサルデーニャ人が亡くなった。Ampsicoraの息子が戦いで亡くなると、Ampsicoraも自殺した。

また、紀元前177年には、古代ローマは、12500人のレギオン兵士をサルデーニャ島へ送り1年間に及ぶ戦いの末、30000人のサルデーニャ人が亡くなり、多くのサルデーニャ人がローマへ奴隷として連れていかれた。

紀元前111年の戦いのあと、サルデーニャ人は、ローマの巨大な権力の下に屈することになる。

ローマ人も支配できなかったサルデーニャ島内陸部

古代ローマはサルデーニャ島の沿岸部、平野部、丘陵地帯を支配したが、サルデーニャ島の内陸の山間部を支配することはできなかった。

そして、古代ローマ人は、支配できなかった内陸部をバルバーリア Barbària と呼んだ。(barbaroは、異国のとか異民族のという意味)

古代ローマ人も支配できなかったサルデーニャ島内陸部バルバーリア
青い部分が古代ローマ人も支配できなかった地域

この中には、古代ローマ人が、i Galillensi, i Nurrensi, i Celsitaniと呼んだ部族がいたが、サルデーニャ内陸部の人々が自分たちのことを何と呼んでいたのかはわかっていない。

時折、ローマ人は内陸部に軍隊を送り、内陸部のサルデーニャ人を捕らえて奴隷として売ったりした。また、時には内陸部のサルデーニャ人が、平野の村々を襲ったりもしたが、サルデーニャ島内陸部は、サルデーニャの習慣や言語、伝統的な宗教などを長い間保ち続けた。しかし、次第に、サルデーニャ島平野部のローマ人風の服装などを取り入れ、徐々に、ローマ化 romanizzazioneしていった。

サルデーニャ人のローマ化

古代ローマの支配は、およそ7世紀間に及んだ。その間ローマは、ローマ共和国からローマ帝国へと変わり、支配領域は、イベリア半島からアジアの境まで拡大した。

皇帝がかわり、戦いに勝利していく間に、サルデーニャ島はローマのプロヴィンチャ(地方自治体)の一つとなり、平和な時代となった。

そして、サルデーニャ人は、ローマ化していった。

ローマの法律、言語、習慣は、サルデーニャ人の生活とサルデーニャ人のメンタリティに強い影響を与え、深まっていった。

ローマ化はゆっくりと進んだが、紀元2世紀には、ローマ帝国は豊かで安定しており、サルデーニャ島でのローマ化が華開いた時期だった。

700年の間にサルデーニャ人は大きく変化した。

ローマ時代のサルデーニャの町

フェニキア人、カルタゴ人のあと、ローマ人も、サルデーニャ島に彼らの町をもともとあった町を大きくする形で築いた。
Karales(現在のカリアリ)は、人口2万人の町で、カリアリからの4本の道がサルデーニャ島を縦断していた。カリアリの港は、地中海西部で最も賑やかな港のひとつであった。

そして、とても重要な町であったのが、サルデーニャ島北東部の町、オルビアであった。サルデーニャ島で最もローマに近い港であったためだ。

ローマ人の築いた町は、アンフィテアトロ(円形闘技場)や劇場があり、神殿や公衆浴場があった。また、それぞれの町には、フォーラム(公共広場) foro があり、そこで商取引が行われた。貴族の館が建てられ、庶民は、庶民の居住地区があった。
また、郊外にはローマの貴族のラティフォンディウムがつくられた。

フォルドンジャーヌスの町は、Forum Traianiの温泉付近に古代ローマ人によって建設された。
Forum Traianiの温泉は、41から43度で、治療効果がある。(現在もローマ時代からの温泉は湧き出ていてホテルが1つある。)
また、サルデーニャ島内陸部のバルバジア地方をコントロールするための軍隊の本拠地でもあった。

フォルドンジャーヌス古代ローマ温泉跡
フォルドンジャーヌスにある古代ローマ時代温泉跡

サルデーニャ島西部のシニス半島の岬にフェニキア人が築いたタロスもまた、ローマ人が居住した。地理的に2つの港を持つことができることなど、とても良い条件が整っていた。

タロス遺跡
タロス

サルデーニャ島南部沿岸に位置するノーラ。ノーラ遺跡にはテアトロ(劇場)跡が遺っている。
サルデーニャ島の古代ローマの町々では、他の古代ローマの町と同様に、たくさんのショーや興行が催された。
ノーラ遺跡には、古代ローマ時代の屋敷の床を飾ったモザイクが残されていることから、繊細な仕事をする職人がいたことがわかる。

ノーラ遺跡モザイク
ノーラ

ローマ人の道

古代ローマ人は、また、多くの道を建設した。
道の建設には2つの目的があった。ひとつは、商業や交通を便利にするため、もうひとつの理由は、軍事的な目的だ。兵士がサルデーニャ島のコントロールや軍事的介入、暴動の抑圧のための移動をしやすくするためだ。
サルデーニャ島を縦断したローマ時代の主要な道は4本あった。
2本は海岸沿いを通り、2本は内陸部を通ってカリアリとポルトトーレス、オルビアを結んでいた。そして、温泉のあるフォルドンジャーヌスは、分岐点としてとても重要だった。

ローマ人の道サルデーニャ
ローマ人の建設した道

ローマ時代に建設された道の多くは、ローマ帝国崩壊後も用いられた。
現在も用いられているサルデーニャ島を縦断する最も主要な道路、国道131号は、ローマ人が建設した道に由来する。

ローマ人作った町のなかの道は、また、タロス遺跡の道のように、道の表面の舗装石の下に下水道があるなど、巧みなつくりだった。

川に架けられた橋や、町の人々に供給する水の送水路の建設など、ローマ人は工学に秀でていた。サルデーニャ島にも、ローマ人が建設した橋や水道橋が残っている。

オルビア ローマ時代水道橋跡
オルビアに残されているローマ時代の水道橋跡

ローマ時代のサルデーニャ島の産業

ローマ時代のサルデーニャ島の産業で、最も重要だったのものは、ローマ時代の前から続いていた小麦栽培。学者によると、毎年25万人分の胃袋を満たす小麦の生産をサルデーニャ島で行っていて、大陸へ輸出されていた。サルデーニャは、ローマの穀倉地帯 granaio di Roma と呼ばれていた。
また、ブドウ栽培やウールや皮、肉など、牧畜も盛んであった。
塩、コルク、そして、銀、鉛、鉄、銅も採掘されていた。
経済の発展により、サルデーニャ島の人口は増え、町は大きくなっていった。

ローマ時代のサルデーニャ島の宗教

アンタス神殿は、500年頃のカルタゴ時代の聖堂の跡に、アウグストゥス帝の時代(紀元前27年から紀元14年)に建てられ、カラカラ帝の時代(紀元213年から217年)に改築された、サルドゥスパーターを祀っていた神殿。

アンタス神殿
アンタス神殿

サルデーニャの父という意味を持つ、サルドゥス・パーター Sardus Pater は、戦士、猟師そしてサルデーニャ人の守り神とされ、当時のサルデーニャ島でとても慕われていた神であった。

サルデーニャ人は、他にも多くの神々を崇拝した。
ギリシャ由来の神様としては、ゼウス Giove(ローマ神話の最高神)、ユーノー(光と結婚の女神、ゼウスの妻)、アスクレーピオス Esculapio など。エジプト由来の神様としては、イシデ Iside(古代エジプトの豊穣の女神)を崇拝した。
つまり、ローマ人とサルデーニャ人は、彼らの慣習をミックスしたのだ。宗教にもそのことが良く表れている。

多神教からキリスト教へ

キリストの死後、新たな信仰がローマで広まり始めた。多神教のローマ皇帝たちはキリスト教徒を迫害した。

多くのキリスト教信者は重労働の刑に処されたり、鉱物資源の豊富なサルデーニャ島へ島流しにされ、炭鉱を掘る労働を強制された。サルデーニャ島へ流罪されたキリスト教信者は、しかしサルデーニャ人にキリストの教えを広めた。

サルデーニャ島は地中海航海ルートの中心であったため、サルデーニャ人はいち早くローマ帝国で起こっていることを知ることができた。

また、キリスト教徒迫害時代に、サルデーニャ人は聖エフィジオ Sant’Efisio、聖ガヴィーノ Sant’Efisio、San Gavino, 聖アンティオコ Sant’Antioco などのキリスト教殉教者の信仰と殉教をまじかで見ることとなった。

ローマ人の支配の終わり

ローマの支配もまた、終わる。
永遠に終わらないかに見えた強力なローマも、次第に指揮権が弱まり、敵の脅威に対して不安定となり、サルデーニャ島も他のローマ帝国の支配地と同様に、貧しくなり人口も減っていった。
作物の収穫量や交易が減り貧しくなったのに、軍隊を維持するためには多額の費用がかかるため、税は上がり、人々は不満をつのらせた。
紀元400年頃には、ローマは、ゲルマン民族の攻撃に対抗するのが難しくなっていった。
そして、455年には、サルデーニャ島は、ヴァンダル人の手に落ちる。ヴァンダル人の支配は、その後533年まで続く。

サルデーニャ年表 フェニキア人、カルタゴ人、ローマ人

今回は、フェニキア人からカルタゴ人、ローマ人の支配の15世紀間を書いた。
サルデーニャ人が主役とならなかった15世紀間にショックを受けたかとも思う。
遠い国々からやってきて、私たちの島を支配した民族。
カルタゴ人やローマ人はサルデーニャ島を侵略し、彼らがパトロンのようにふるまった。
歴史は、勝者により書かれる。支配された人々のこと、彼らの生活や習慣や宗教などについては、勝者は興味がない。そのため、この時代のサルデーニャ人のことは、あまりわかっていない。

しかし、最初は敵であったカルタゴ人やローマ人とサルデーニャ人は次第に混ざり、一つの民族を作った。
つまり、サルデーニャ島に住んでいた人たちは、フェニキア人やカルタゴ人、ローマ人が祖先だとしても、皆、サルデーニャ人なのです。そして、この混合がサルデーニャの魅力でもあるのです。

参照 : storia sarda, sardegnaturismo.it, museoarcheocagliari.beniculturali.it, beniculturali.it, visitanet.it

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