ヌラーゲ文明 サルデーニャ島の歴史②

ヌラーゲ 世界遺産 サルデーニャ島の歴史

ヌラーゲは、世界中でサルデーニャ島にのみ存在する遺跡建造物。サルデーニャといえばヌラーゲというくらい、ヌラーゲはサルデーニャを代表する遺跡です。

今回は、そのヌラーゲが建てられ、華開いた時代、ヌラーゲ文明について書きたいと思います。

ヌラーゲ文明の時代はいつ?

ヌラーゲ文明の時代は、研究者により年代に差がありますが、紀元前1600年頃から紀元前500年頃を指します。青銅器時代から鉄器時代にかけて千年以上続きました。

紀元前1600年頃、ヌラーゲの前段階のプロトヌラーゲが建てられました。

紀元前1500年から紀元前1000年頃には、大きく、堂々とした本当のヌラーゲが建てられました。

紀元前900年の鉄器時代には、理由はわかっていないのですが、サルデーニャ人は、ヌラーゲを建設することをやめました。ヌラーゲは使い続けたのですが、新しくヌラーゲを造ることをやめたのです。

そして紀元前500年頃、ヌラーゲ文明は終わりを告げます。

なぜ、ヌラーゲ文明と呼ばれるのか?

なぜ、ヌラーゲ文明と呼ばれるのかというと、ヌラーゲがサルデーニャ島のその時代の最も重要な建造物だったからです。

サルデーニャ島中で同じようなヌラーゲが建てられ、作物を栽培し、陶器をつくり、交易をおこない、村々を統治し、神を崇拝していました。そして、サルデーニャ島では、ひとつだけの民族、サルド(サルデーニャ人)が住んでいました。

プロトヌラーゲ

紀元前1600年頃、ヌラーゲの前段階のプロトヌラーゲが建てられました。

ヌラーゲに先行するプロトヌラーゲは、内部に廊下が一つあったため、プロトヌラーゲは、“nuraghi a corridoio”とも呼ばれます。( corridoioは廊下という意味)

プロトヌラーゲは、ずんぐりしており、不規則な形をしています。大きな石の塊を積み重ねて造られており、高さは最大で10メートルくらい。

プロトヌラーゲのてっぺんは、平でした。時には、てっぺんにカパンナを建てたりしました。

プロトヌラーゲの内部には、プロトヌラーゲの端から端までつながっている廊下があるのですが、大きな部屋などはなく、小さな部屋があるだけで、用途はわかっていません。

およそ300のプロトヌラーゲがあります。

ヌラーゲ

ヌラーゲはとても重い大きな石を積み重ねて建てられています。ヌラーゲ nuraghe の nur は、「石の積み重ね」という意味を持ちます。そして特徴的なことは、大きな石を積み重ねただけで、接着剤のようなものは用いられていないこと。上に行くにしたがい段々と石の大きさは小さくなり、まるで精巧につくられたジグソーパズルのようです。

ヌラーゲ内部には部屋があり、その部屋が積み上げられて複数階になっているヌラーゲもあります。下の絵のヌラーゲ・サンタ・サビーナは、2階建て。

ヌラーゲサンタサビーナ シラーヌス
2階建てのヌラーゲ・サンタ・サビーナ

各部屋はクーポラ(丸天井)状で、トーロス tholos と呼ばれています。(トーロスはギリシャ語で、クーポラの意味。)トーロスは、円形に石を並べて積み重ねていき、上に行くにしたがって段々と狭くなります。最後の「屋根」はたった一つの石。トーロスはクーポラではなく、あくまでもクーポラのものであるため、偽クーポラ falsa cupolaともよばれます。(クーポラは、半球型の屋根の重みを壁で支えているが、トーロスとは、積み重ねた石が重さを支えている。)

トーロスは、地中海沿岸の他の地域にも存在します。サルデーニャ島のトーロスが初めか、他のトーロスが初めかはわかっていませんが、どちらにしても、他の民族とコンタクトをとっていたことは確かです。

ヌラーゲには、一つの塔しかもたないヌラーゲから、中心塔の他に5つもの塔を持つヌラーゲまであります。

サルデーニャ島には7000から8000ほどのヌラーゲがあると言われています。サルデーニャ島の面積がおよそ24000平方キロメートルなので、それを7000で割ると3.4平方キロメートルに1つのヌラーゲがあることになります。

多くのヌラーゲが、時とそして人間によって壊されてしまったが、7000以上あると言われるヌラーゲのうち、1000のヌラーゲが、ヌラーゲコンプレッソ(複合ヌラーゲ)と呼ばれる2つ以上の塔をもつヌラーゲです。

ヌラーゲ文明の時代には、古くなったヌラーゲを改築したり、古いヌラーゲを建て直したりもしました。現在の私たちの家と同じように、誰も用いなくなってしまったヌラーゲがあったり、他の人が使ったりもしました。

ヌラーゲの役割

研究者たちは長い間、何のためにヌラーゲがつくられたのかを議論してきました。
ヌラーゲは丘の上など高い場所にあることが多いため、敵が来ないかを見張ることができたことは確かです。
そして、敵が襲ってきたとき、井戸があったり、大勢の食料保存ができる場所があるなど、
ヌラーゲの中に避難することができました。
また、物々交換をするなど、様々な活動の中心地ともなったとも推測されています。
ヌラーゲは、村の長や村の重要人物の家だったという説もあります。
さらには、宗教的役割を果たす場所、天文学的観測場所であったと考える研究者もいます。

ヴィラッジョ

ヌラーゲの周囲には、カパンナ(小屋)の建っているヴィラッジョ(集落)がありました。
カパンナは円形で、壁は石造り、覆いとなる屋根は、木の骨組みに、小枝をのせ、粘土や薄い石で覆われていました。
カパンナの開口部分は出入口のひとつだけ。外部から内部へ入るための2段か3段の小さな階段があることもありました。

カパンナ内部では、調理をしたり、食事をしたり、睡眠をとったり、女性たちは機織りをしたりしました。壁龕には、家で使うものや食料を保管した。カパンナは、ほぼくっつきあうように建てられていました。

カパンナはどれも似た作りであったが、「会議のためのカパンナ」capanna delle riunioniだけは特別でした。
会議のためのカパンナは、他のカパンナよりも大きく、石のベンチがあり、ここで、村の長老たちが集まり、様々な事柄を議論した。中心には、石でヌラーゲを模した小さな小祭壇がありました。

会議のためのカパンナ ヌラーゲ
会議のためのカパンナ

ヴィラッジョ(集落)は、ヌラーゲの周りにだけあったわけではありません。ヌラーゲのない集落もありましたし、周囲にカパンナの建つ集落のないヌラーゲもありました。

ヌラーゲ文明の社会

ヌラーゲ文明の社会構造はよくわかっていないのですが、わずかだが、わかっていることがあります。

ヌラーゲ時代のサルデーニャ人は、家族単位の地域社会で構成されたトゥリブ tribù(部族)ごとに分かれて住んでいました。どのくらいのトゥリブがあり、どこに住んでいたのかはわかっていません。

ヌラーゲ文明の初期は、すべてのトゥリブの家族が同じ権利を持っており、その中から、トゥリブを統治するリーダー capo を選びました。リーダーは長老や智者の助けを受けて、トゥリブの重要な事柄を決めていました。

ブロンゼット ブロンゼッティ
マントをはおり、杖と短剣を持っているリーダーのブロンゼット

ヌラーゲ文明の後期になると、トゥリブの家族の中で、違いが生まれてきました。あるファミリーは重要で名声が高く、あるファミリーは、あまり威信がありませんでした。リーダー capo は、より重要なファミリーから選ばれました。

リーダー capo 以外に、二人の重要人物がいました。
1人は、戦士 guerriero であり、もう一人は宗教セレモニーを行う祭司 sacerdote でした。
ヌラーゲ時代の人々は、農民、牧畜家、陶芸家、建具屋、石工など皆、それぞれ役割を持っていました。

ヌラーゲ文明の経済

農業 : 小麦を栽培しており、パンを作っていました。パンは、この時代のサルデーニャ人の主要な栄養源でした。また、ブドウも栽培していて、ワインも作っていました。

牧畜 : 山羊、羊、牛を村人全員で共同で飼い、肉やミルク、毛や皮を得ていた。

手工業 : 器などの陶器、日常生活で使う木工製品、石工は、カパンナやヌラーゲを建てるのに不可欠な仕事を行っていました。鍛冶職人が作ったものは、現在の私たちの時代まで残され見ることができます。

ピンタデラ
ピンタデラ

ピンタデラ pintadera は、小さな陶製の円形状のもの。神様に捧げるパンをデコレーションするために用いられました。トッラルバにあるヌラーゲ、サントゥアンティーネで発見されたピンタデラはサルデーニャの地方銀行、バンコ・ディ・サルデーニャのロゴマークにもなっています。

ヌラーゲ文明の交易と金属加工

ヌラーゲ時代のサルデーニャ人は、ヴィラッジョ(集落)の中だけに留まらずに外へ出る有能な商人でした。

サルデーニャ島内の他のトゥリブ(部族)の商品と物々交換をしたりしたほか、エトルリア、ギリシャ、キプロスなど地中海沿岸各地で、ヌラーゲ文明の陶器やブロンズ像が見つかったことから、サルデーニャ島の外でも交易が行われたと考えられています。

ヌラーゲ時代のサルデーニャ人は、金属を加工することができました。銅や鉛を岩から採掘したほか、錫など、サルデーニャ島で採れないものは商人から輸入しました。銅と錫を混ぜて鍛冶屋は青銅 bronzo を作り出しました。青銅から、剣や短剣、斧、スコップ、ハンマー、また、指輪やブレスレットなどのアクセサリー、櫛や髭剃り、マントの留め金などを作りました。

ブロンゼット – ヌラーゲ文明のアート

ヌラーゲ文明のサルデーニャ人は、たくさんのものを遺しましたが、その中で最も美しいものの一つは、ブロンゼットであろう。

ブロンズ(青銅)でできている小さな像なので、ブロンッゼット brenzetto と呼ばれています。

研究者によると、ブロンゼットは宗教的な役割も果たしたものと考えられています。なぜならば、多くのブロンゼットは、宗教的崇拝の場所で発見されたからです。

授かった良いことや、お願いをして受けた恩恵、例えば、子供を授かった、病気が治った、豊富な収穫を畑から得られたなどのへの感謝の気持ちをブロンゼットに表して神殿へ持っていき、神に捧げたのではないかと考えられています。

(現在でもカトリック教会に行くと、voto と呼ばれる銀の捧げものがずらりと並んでいる教会があるので現在とヌラーゲ文明は続いているのだなあと感じます。)

このように用いられたと考えられるのは、ブロンゼットは大変貴重なものだったからです。ブロンゼットを作るためには、高価な金属を使い腕の良い職人が必要。つまり、神に捧げるためにふさわしい贈り物だったのです。

ブロンゼットには、ヌラーゲ時代のサルデーニャの人々が表現されています。射手、戦士、女性、村のリーダー。

また、動物や日常生活で使われた道具、ヌラーゲのミニチュア、小舟などののブロンゼットもあります。

これらの小さなブロンズ像から、ヌラーゲ時代のサルデーニャ人の日常生活や社会を理解することができます。

ヌラーゲ文明のサルデーニャ人は、地中海沿岸の様々な民族と交易を行っていたことは、地中海沿岸各地に、サルデーニャ人が作ったものが遺されていることからわかっています。

そして、他の地域の人々が彼らの船でサルデーニャ島へやってきたように、ヌラーゲ時代のサルデーニャ人も、船を持ち、地中海沿岸各地へ商品の売り買いに行っていました。

船は木製だったため遺されていないが、ブロンゼットにその当時の船の様子を見ることができます。

ブロンゼット カリアリ考古学博物館
ブロンゼット

ブロンゼットは宗教上のお供えとして用いられていたので、交通安全祈願や安全な旅の感謝のしるしとして奉納されました。

モンテプラマの巨人 – ジガンティ

ブロンゼットだけが、ヌラーゲ時代のサルデーニャ人の芸術作品ではありません。

ヌラーゲ文明の創作物で最も素晴らしいものの一つに、現代の私たちが、モンテプラマの巨人 Giganti di Monte Prama と呼ぶ石の彫像があげられます。

モンテプラマの巨人 ジガンティ
モンテプラマの巨人 ジガンティ

ミステリアスな表情、左腕で盾を頭の上で支え、頭を保護しているジガンティ。

モンテプラマの巨人の名前の由来は、その彫像がおよそ2メートルから2.5メートルもあり、まさに巨人のようだからです。

カブラス近くの小さな丘、モンテ・プラマで、それらの巨人の像が発見されたため、モンテプラマの巨人(ジガンティ)と呼ばれています。

モンテプラマの巨人の彫像は、ボクサー pugili、射手 arcieri、戦士 guerrieriで、ブロンゼットと同一の人物像である。しかし、表情が独特なのです。特に、大きな真ん丸の目。ブロンゼットの目は細長いのに対して、モンテプラマの巨人の目は、2つの円で彫られており、まるで宇宙人のようです。このような表情のこの時代の石の巨像は、地中海地方西部にはモンテプラマの巨人以外には存在しません。

なぜこのような巨大な像がつくられたのかは、まだ解明されていません。

祖先のお墓の見張りをしていたのではという説があります。

モンテプラマの巨人がつくられたのは、ヌラーゲ文明の後期であると考えられています。なぜならば、モンテ・プラマでは、ヌラーゲのミニチュア模型の石のが彫刻が発見されたからです。過去の素晴らしい建築物を称賛して作ったと考えられています。著名な考古学者、ジョヴァンニ・リッリウ Giovanni Lilliu氏によると、紀元前13世紀から紀元前9世紀の間と、まだはっきりとした時期はわかっていませんが、この時代のサルデーニャ人は、このような並外れたアート彫刻をつくれるほど、豊かで繊細であったのです。

巨人の墓

なぜこのような名前がついたのかというと、これらの墓がとても大きいからです。どのくらい大きいかというと、縦の長さが25メートル以上ある巨人の墓もあります。
そのため、巨人が埋葬されているのではないかと言い伝えられたりしていました。
しかし、実際は、ドルメンと同じく集合墓地で、複数の死者を埋葬していたのです。

形は、牛の頭のかたち。ヌラーゲ時代のサルデーニャ人にとって、牛は神聖な動物でした。
半円系のアーム部分は牛の角を表しており、その半円に囲まれたスペース、エセドラ esedra では宗教的儀式が行われたと考えられています。埋葬場所は、縦に長い部分。
ヴィラッジョ(集落)の人々もしくは、複数のヴィラッジョの人々を埋葬していたと考えられています。

巨人の墓 トンバデイジガンティ
巨人の墓

サルデーニャ北部の町、パラウの近くにある上の写真の巨人の墓、Li Mizzani は、パワースポットともいわれています。

聖なる井戸

「聖なる (sacro)」井戸と呼ばれているくらいですから、井戸なのですがもちろんただの井戸ではありません。

水は、人間が生きていく上で不可欠なもの。飲んだり体を洗ったり、畑の作物を実らせ食料を与えてくれる。でもそれ以外に、もしかすると現在のルルドの泉のように、聖なる井戸の水は、病気を治す水だったのではないかとも考えられています。

ヌラーゲ文明の時代のサルデーニャ人にとって、聖なる井戸は信仰の場所だったのです。

聖なる井戸 ポッツォサクロ
聖なる井戸

聖なる井戸には、下へ降りる階段がある。この階段をおりていくと、水源にたどりつく。

メガロン神殿

ヌラーゲ文明には、メガロン神殿とよばれる神殿があります。

メガロンはギリシャ語で広間を意味し、四角い部屋に前室がついています。また、火を絶やさずつけていたと考えられています。

メガロン神殿 サルデーニャ島
メガロン神殿

メガロン神殿もある遺跡、ソス・ヌラトーロスを訪れた時の記事はこちらです。ご覧いただければ幸いです。

ヌラーゲ文明の言語

ヌラーゲ文明のサルデーニャ人がどのような言葉を話してコミュニケーションをとっていたかは、わかっていません。また、現在のところ、ヌラーゲ文明の文字は発見されていないため、文字を使っていたのかもわかっていないません。

ヌラーゲを建設し、モンテ・プラマの巨像をつくる能力があったのに文字がなかったのは不思議です。新たな発見を待ちたいと思います。

(メソポタミアでは、紀元前3000年に楔形文字があり、古代エジプト人はパピルスに象形文字をかいていた。)

紀元前900年以降のヌラーゲ文明

紀元前900年には、サルデーニャ島は青銅器時代から鉄器時代へと移ります。

そして紀元前900年頃からサルデーニャ人は、なぜだか理由はわかっていないのですが、新しくヌラーゲを建設しなくなりました。ヌラーゲは、宗教的儀式の場所として、また天文観測場所として用いられたと考えられています。

ヴィラッジョ(集落)はどんどん大きくなっていき、畑の面積も増え、食料が豊富になりました。

ファミリー間の社会的地位格差も生まれてきました。

埋葬場所は、トンバ・ディ・ジガンティのような共同埋葬に加えて、一人ずつの小さな井戸状のお墓にも埋葬されるようにもなりましたが、一人ずつのお墓は、あの世へ持っていくとされる埋葬品からヴィラッジョの重要人物のお墓であったと考えられています。

紀元前900年までは、サルデーニャ島にはサルデーニャ人だけが住んでいたと考えられています。しかし、紀元前900年以降、フェニキア人も沿岸部に定住するようになりました。(紀元前900年前までも、商品売買のためにフェニキア人はサルデーニャ島へ来ていたのですが、フェニキア人の住んでいたシリアやレバノンから来て、またそこへ戻っていたのです。)

フェニキア人は、カリアリやノーラやタロスやサンタンティオコに町をつくり住みましたが、フェニキア人の目的は、商業と航海であったので、サルデーニャ人を武器で襲うようなことはなく、サルデーニャ人とは平和的に暮らしていました。

紀元前600年ごろからサルデーニャ島沿岸部にはカルタゴ人も上陸するようになりました。カルタゴ人は現在のチュニジアに住んでいて、勢力を拡大していました。
しかしカルタゴ人はフェニキア人と違い、攻撃的でした。商業をしながら、国々を攻撃して支配下においていたのです。
そしてサルデーニャ島も紀元前500年頃、カルタゴ人の支配下となり、ヌラーゲ文明が終わりを告げます。

ヌラーゲ文明のサルデーニャ人

ヌラーゲ文明は、サルデーニャ島中で習慣、伝統、建築物、宗教儀式が同じで、ヌラーゲやモンテプラマの巨像に見られるように、高い文化水準をもち、豊かであったと推測されています。

他の民族に依存することなく、そして他の民族から支配されることがなく、サルデーニャ人だけでサルデーニャ島を統治していました。

ヌラーゲ文明のサルデーニャ人は、自分たちが他の民族とは違っていることを自覚していました。

そのヌラーゲ文明はおよそ1000年間も続いたのです。現在の統一されたイタリアが150年ちょっとの歴史しかないことを考えてみると、サルデーニャ人の奥底に秘められているDNAは、ヌラーゲ文明に基があるように思えてなりません。ヌラーゲ文明を知ることは、サルデーニャ人を理解する手助けになると思うのです。

サルデーニャ島の歴史③に続きます。

引用 : サンタ・サビーナと会議のためのカパンナの絵は、Sardegna Nuragica Giovanni Lilliu より

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