カリアリのカステッロ地区にある大聖堂は、聖セシリアS.Cecilia にささげれれた古い教会のあった場所に、ピサ人によって12世紀に建設され、1258年にカテドラーレとなった、ピサロマネスク様式の教会であったが、700年に及ぶ年月の間に、様々な改装が行われた。カリアリの大聖堂を見ることは、カリアリの歴史の一部を知る手掛かりともなる。
ファサード
ピサロマネスク様式であったファサードは、1699年から1704年にかけて当時の流行りであったバロック様式へと改修された。1900年代の初めに再度改修を行ったときには、13世紀のオリジナルのファサードがバロック様式の下に残されているかもしれないと考えられ、バロック様式の部分をはがしたが、下からは何も出てこなかった。そのため、一時期は、飾りのないファサードだった時期もある。その後、ピサの大聖堂から着想を得てネオロマネスク様式の現在の姿となったファサードが完成したのは1933年でした。
翼廊の扉
翼廊の横の2つの扉は、13世紀にピサ人が建てた時代のもの。左側の扉は、ロマネスク様式、右側の扉はややゴシック様式であるため、左側の扉の方が右側の扉よりも前の時代にできたと考えられている。
グリエルモの説教壇 amboni
大聖堂の入り口に面した壁に置かれているのは、グリエルモの説教壇 amboni。キリストの生涯が彫刻されている。サルデーニャにある彫刻で最も重要なものの一つと言われています。もともとは、ピサの大聖堂の説教壇として1162年にグリエルモによってつくられたもの。その148年後には、ジョヴァンニ・ピサーノのものと入れ替えられ、1312年に、ピサからカリアリの大聖堂へと贈られました。当初は身廊の3番目の柱付近に置かれていたが、17世紀に大聖堂が改築されたときに、2つに分けられ現在の場所に設置された。
左側の説教壇は、中央にヨハネ。ヨハネのシンボルのワシの書見台。そして
東方の三博士とキリストの誕生を悲しむヘロデ王
ヘロデ王による幼児虐殺
聖母マリアへの受胎告知
キリストの誕生
天使が聖母マリアにキリストの復活を告げる
キリストの墓が空っぽなのを見て動揺する兵士
最後の晩餐
ユダの接吻
が彫刻されています。
興味深いのが右側の柱にカエルの彫刻があること。これは、マエストロ・グリエルモのサインに相当します。当時は、彫刻家が作品にサインのようなものを入れることが禁じられていたため、このような形でひっそりと跡をのこしたのです。
右の説教壇には、
キリストの昇天
キリストの変容
神殿奉献
キリストの洗礼
東方三博士の礼拝
東方三博士の帰還
が刻まれています。
Cappella della SS.ma Vergine della Mercede
左から3番目のcappella
サルデーニャのスペイン支配のしるしが強く残されている。
Bernardo di Cariñena大司教の意向により1722年に建てられた。大司教は、1722年のクリスマスに亡くなり、この礼拝堂の祭壇下に埋葬されている。
Ordine della Madonna della MercedeはPietro Nolascoにより、イスラム教徒により奴隷として連れ去られたキリスト教徒を解放させる目的で、1218年にバルセロナで創設された修道会。
La Madonna della Mercedeの特徴は、聖母が、Madonna della Mercede修道会の服装である白いチュニックを着て立っている。時には、奴隷の象徴である鎖を持っていることも。

Cariñena大司教は、Madonna della Mercede修道会であたっため、Madonna della Mercedeの大きな絵が中央にある。Mercedeは、ラテン語mercesからきたスペイン語で、grazia gratuita つまり、misericordia (無償の慈悲)の意味。
その下には、Madonna del Pilarの像がある。pilarはスペイン語で、柱の意味。
マルティーノ1世の霊廟
翼廊左側にあるバロックスタイルの豪華なマウソレオ(霊廟)は、アラゴン王マルティン1世の息子のシチリア王マルティーノ1世の霊廟。1676年にジェノヴァで製作された霊廟は、50の部分にわけられていて、カリアリまで大きな20個の箱にいれられて運ばれた。そしてカリアリで組み立てられ1680年に完成。1689年に埋葬された。マルティーノ1世は、サルデーニャ島を征服している際に1409年にカリアリで亡くなったため、死後300年近く経ってから出来上がったこととなる。長らくの間、マルティーノ1世はここにではなく、スペインで埋葬されていると考えられていたが、2005年の修復の時に、金の刺繍がほどこされた赤いビロードに包まれたマルティーノ1世の亡骸が見つかった。
霊廟は3つにわかれており、1番下には、4つの兵士の像と中央に盾を支える二人の天使。下から2番目には、アラゴン王の紋章とマルティーノ1世が亡くなった日付が刻まれている。
3番目には中央に2匹のライオンの上にマルティーノ1世の棺がある。そして一番上には、冠を頭につけ、鎌を手に持った骸骨がある。左右のニッキアには、正義と信仰の像。マルティーノ1世は、1409年7月1日のアルボレア王国とのサンルーリの戦いで勝利したが、25日にマラリアに罹り亡くなった。
クリプタ
カリアリの大聖堂の中で圧巻なのは、地下にあるクリプタ。カリアリの大司教フランチェスコ・デスクィヴェル Francesco Desquivel の意向によって1618年に完成。クリプタは、殉教した聖人、聖サトゥルノと4世紀のカリアリの司教であった聖ルチフェロに捧げられている。
大理石の階段を降りてすぐに気が付くのが584個あると言われる天井のロゾーニ(花形の装飾)。アカンサスの葉模様やバラ、ブドウ、イチジクなどの模様の彫刻は、なんとひとつとして同じものはないという。
大理石の階段の踊り場には、フランチェスコ・デスクィヴェル大司教の墓がある。
中央のカッペッラの天井には5つの銀のランプがつるされていて、中央のものには、丁寧な浮彫細工がほどこされている。横には2つの碑板がある。1618年の教皇パオロ5世と1619年のスペイン国王フィリッポ3世からの殉教者の聖遺物発見に対する感嘆の言葉が示されている。
入って右側のサン・ルチフェロ(4世紀のカリアリの司教)のカッペッラには殉教した聖人の聖遺物が納められているニッキアが80あり、フランス王ルイ18世の配偶者で、サルデーニャ王国国王のヴィットリオ・エマヌエーレ1世やカルロ・フェリーチェの姉であるマリア・ジュゼッピーナ・ディ・サヴォイア(マリー・ジョゼフィーヌ・ド・サヴォワ)の墓がる。マリア・ジュゼッピーナは夫がフランス国王として戴冠する前の1810年に亡命先のイギリスで亡くなったため、最初はイギリス王族が眠るウエストミンスター寺院に葬られたが、弟でサルデーニャ王国国王ヴィットリオ・エマヌエーレ1世の取り計らいにより、翌年カリアリ大聖堂へと移された。サルデーニャ王国のサヴォイア家の王族は、1799年から1815年まで、ナポレオンのピエモンテ占領によりサルデーニャ王国の首都であったトリノから王宮が大聖堂の隣のPalazzo Regio へ移されたいた。
降りて行って左側には、サン・サトゥルニーノのカッペッラがある。サン・サトゥルニーノはキリスト教を弾圧していたディオクレティアヌス帝の時代に19才の若さで殉教したとされている。また、カリアリ生まれのサン・サトゥルニーノは、カリアリの守護聖人でもある。祭壇には、ローマ時代の2世紀の石棺がある。この石棺は17世紀にサルデーニャで最も古い教会のひとつであるサン・サトゥルニーノ教会で発見され、中にはサン・サトゥルニーノの聖遺物が納められていた。サン・サトゥルニーノの聖遺物は、1621年にこの石棺とともにこちらに移されている。
また、サルデーニャ王国国王ヴィットリオ・エマヌエーレ1世とマリア・テレーザ・ダウストリア=エステの唯一の息子で1799年に2歳で亡くなったカルロ・エマヌエーレのモニュメントがある。