カリアリからおよそ20kmのところにある町、ドリアノーヴァに、サルデーニャ島の中で重要なロマネスク教会のひとつであるサン・パンタレオ教会があります。
サン・パンタレオ教会は1503年にドリア司教区がカリアリ司教区に併合されるされるまでは、カテドラーレ、つまり司教のいる司教区内の最高の権威をもつ司教座大聖堂でした。
各所にロマネスク教会の特徴である人や動物、植物、幾何学模様などの彫刻やが随所に残されていて、ひとつひとつを見ていくだけでもとても興味を惹かれます。素朴な、でも温かみのある教会に、これらの可愛らしい彫刻を見つけるのがロマネスク教会の魅力のひとつ。
まずは、いくつかの彫刻をご覧頂きたいと思います。
教会南側には、二人の人物が並んでいる彫刻があります。カトリック教会で高い地位を持つ司教と、サルデーニャ島が4つの独立王国に分かれていた時代の王、マリアーノ2世。
マリアーノ2世は、サルデーニャ島が4つのジューディカーティと呼ばれる独立国に分かれていた時代のアルボレア王国の王(ジューディチェ)(在位1241年から1297年)
中へ入ると、どっしりとした柱にアーチが支えられているのが目につきます。その柱や柱頭がそれぞれ違うので、じっくりと見て頂きたい。
聖母マリアが幼いキリストを抱いている。横たわっているのが聖母マリア。聖母マリアの後ろには、サン・ジュゼッペと二人の天使。
大きく開いたライオンの口には、男性と女性の手が交差されている。女性はひだのある服に丸い留め金がついている。ライオンは軽い罪を犯した人があの世へ行く前にその霊をむさぼり食い清め、天国へ送る。
中世の時代には、ドラゴンは悪の象徴。ドラゴンは口を大きく開け、歯をむき出し、ひづめで抱き合っている二人ををつかもうとしている。
サン・パンタレオ教会は、12世紀初めから数回にわけて建設され、1261年から1289年に完成しましたが、5世紀から6世紀のものとされる初期キリスト教時代の洗礼盤が現在のサン・パンタレオ教会の建つ場所で発見されていることから、初期キリスト教時代から信仰の場所であったことがわかっています。(現在は祭壇下に保管されています。)
教会南側の端に、1170年、マリア・ピザーナという名前が刻まれた碑文があります。このマリア・ピザーナがどのような人物かはわかっていないのですが、1170年にはすでに教会が存在していたということがわかります。
中世の建築様式では、再利用という意味のスポリオと呼ばれる方式を取り入れられることがよくありました。スポリオは、昔の建築物などの一部をとって、新しい建築物に取り入れ、再び利用、つまりリサイクルすることです。中世の時代にスポリオを取り入れた理由は、3つあります。象徴的側面、文化的側面、そして経済的側面からです。
サン・パンタレオ教会でも、その再利用の跡をみることができます。まずは、入口に、ヘビが彫られている大理石のアーキトレーブ。
このアーキトレーブは、ローマ時代の温泉跡からとってきたものであると推測されています。今はほとんどの残されているものはないのですが、ドリアノーヴァにもローマ時代にはテルマエがあったのです。また、なぜキリスト教では悪の象徴とされているヘビをアーキトレーブにをもってきたのかというと、サン・パンタレオの行った奇跡、ヘビにかまれた少年を助けたという奇跡を示したかったのではないかと考えられています。
また、教会北側には、なんと柱の上に大理石の石棺が取り付けられています。これもドリア地方の古代ローマ時代のものの再利用であると考えられています。
地元の凝灰岩で建てられている教会に、白く光る大理石には、こんな経緯があるのです。
1289年にアルボレア王国のジューディチェ、マリアーノ2世も列席して、サン・パンタレオ教会はコンサクラメント(正式な教会として認められる)されました。このことは、アプシスのフレスコ画の下に書かれています。
アプシスのフレスコ画 13世紀
痛みが激しいので、研究者によって意見は違うが、キリストは聖書を持って玉座に座り、聖母マリアと洗礼者ヨハネが脇に建っているイコンと推定されている。マタイによる福音書に「既に斧は木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」と預言者、洗礼者ヨハネ(ジョヴァンニ・バッティスタ)が言う場面があるので、斧が刺さっている木のとなりは、洗礼者ヨハネであると考えられている。
14世紀のフレスコ画「生命の樹」Arbor Vitae
赤い四角で囲まれた中には3つの円があり、中心には十字架に例えられた樹にかけられたキリストが描かれている。生命の樹からは12本の枝が伸びていて、それぞれが、果実を持っていて、キリストの生涯や受難、復活などの言葉が含まれている。その周囲の円には、聖人や預言者が描かれていいる。四角は地を円は天国を表している。赤い四角の右の外側に紙を持っているのはサン・フランチェスコ。
概して中世のフレスコ画には、フレスコ画の下の方に作品の注文主が小さく描かれることがよくある。このフレスコ画の左下にもうっすらとヴェールを頭にかぶった女性の姿を見つけることができる。この女性は、アルボレア王国のジューディチェ、ピエトロ3世の妻のコスタンツァ・ディ・サルッツオ。ピエトロ3世とともに1343年にオリスターノにサンタ・キアラ修道院を設立した。夫の死後、コスタンツァは、サンタ・キアラ修道院へ引っ越し、このフレスコ画の完成を見る前に亡くなった。
15世紀のレタブロ。Retablo di San Pantaleo
レタブロとは、分割されたたくさんの絵画や彫刻から構成される祭壇画。装飾の側面とともに、キリスト教の教義を説明する役割を持つ。スペインのアート。サルデーニャへはスペインから14世紀半ばにもたらされた。
レタブロには、6枚の絵に分かれており、中心に医師の姿のサン・パンタレオ、そしてサン・パンタレオが行った様々な奇跡、例えばディオクレティアヌス帝による迫害の際、サン・パンタレオは大きな石をくくりつけられて海に沈めようとされたが、沈まなかったことや殉教の様子が表されています。また、上部には「書物の聖母」が描かれています。
教会は、カリアリのジューディチェ、コスタンティーノ2世によって、マルシリア(マルセイユ)のベネディクト会修道士のために建てられました。サン・パンタレオは、ディオクレティアヌス帝のキリスト教弾圧により305年に殉教した聖人で、現在のトルコ出身の医師。サン・パンタレオへの信仰は、6世紀に北アフリカから多くの聖職者がサルデーニャ島へ亡命してきたことと関連します。