アルボレーア王国の教会 サン・ガヴィーノ・マルティレ教会

エレオノーラ アルボレーア サルデーニャ島の遺跡、教会、祭り

どうしても中に入ってみたかった教会があった。
教会内に、中世のサルデーニャ島で最も有名な女性、エレオノーラの彫刻があると、ある資料で読んだからだ。
エレオノーラは、14世紀から15世紀初頭に生きた、アルボレーア王国のジューディチェッサ、つまり女王。中世のサルデーニャ島は、ジューデカーティと呼ばれる4つの独立王国にわかれていた時代があった。正確には摂政だったため、ジューディチェッサ(ジューディチェッサは国王ジューディチェの女性形)ではなかったが、十分にその役割を果たしたため、そのように敬意を持って呼ばれている。そして女性の権利などという言葉からはほど遠い中世の時代に、女性の権利も含む法典、カルタ・デ・ログを公布した人物。
このような有名な女性なのに、その時代のエレオノーラの彫刻や絵はほとんど残されていない。なぜかというと、エレオノーラの死後、20年も経たないうちにアルボレーア王国は終焉を迎え、その後アラゴンの支配となり、アルボレーア王国の王家に関するものはアラゴンによって破壊されたからだ。そのため、1981年に歴史家のカズーラ教授の調査によって、サン・ガヴィーノ・マルティレ教会の4つのペドゥッチョ(持ち送り積み)の彫刻うちのひとつがエレオノーラであることが断定されるまで、エレオノーラがどのような外観だったかはわからなかったという。

サン・ガヴィーノ・マルティレ教会は、サルデーニャ島南部、カリアリから北へおよそ55kmほどのサン・ガヴィーノ・モンレアーレという町にある。サン・ガヴィーノ・モンレアーレは、サフランの生産でも有名で、毎年サフラン祭りも開かれる。

カリアリに行く機会があり、それならばサン・ガヴィーノ・モンレアーレにも寄ってみようと思ったのだが、行く時間があるかどうかは直前になるまでわからないという予定だったので、予約はせず、もし開いていたらラッキーというような状態で行ってみたのだが、やはり門は固く閉ざされていた。教会の周りをウロウロしてみたが、門から教会入口までは少し距離もあり、人の気配もない。教会の素っ気ない外観に対して、隣には立派な修道院がある。ここまで来たのだから、と門の前にある電話番号に電話してみた。電話も誰もでないだろうな思っていたところ、電話は通じた。「教会を見たいのですが、可能でしょうか?」「もうすぐミサが始まってしまうので、来週のモニュメンティ・アペルティの時なら開いているのでその時に来てください。」でも、せっかく教会の目の前にいるのだから、ちょっと粘ってみた。「今、まさに教会の前にいるんです。ちょっとだけでよいので中に入って見学することはできないでしょうか?」すると電話は切れ、あーやっぱりだめか、とあきらめかけていると門がスルスルと開いた!

そして痩せた小柄なシスターが現れ、はにかみながら、教会の扉を開けてくれた。丁寧にお礼を言って中へ入ると、本当にお祈りの時間が始まっており、もう一人のシスターが席に座って静かに祈っていた。中は、外観とうってかわって、明るいかわいらしい教会。

サルデーニャ島中世の教会
奥の後陣部分のみが建設当初のもの

そしてもう一つびっくりしたのが、シスターの頭を覆う帽子というかベール。なんというか昔のカメリエーラのようにぐるりと周囲に飾りがついている。なんだか別の世界へ来てしまったかのような不思議な錯覚を覚えた。

教会の建設が始まったのは1347年、マリアーノ4世がアルボレーア王国のジューディチェとなった年。なぜ、この場所に教会が建てられたかというと、それは、マリアーノ4世が家族としばしば滞在したモンレアーレ城の近くに教会が必要だったからであると考えられている。また、近くにある温泉、サンタマリア・デッレ・アクエへ “バカンス” に訪れていたとも推測されている。そのため、小さいながらも王の名にふさわしい教会を建てたかったのであり、サン・ガヴィーノ・マルティレ教会は王家のための教会であったと想像するのはごく自然なことだ。

サン・ガヴィーノ・マルティレ教会の建設はマリアーノ4世の統治時代の1347年に始まった。これは教会内部の壁に書かれていることから読み取れる。しかし、教会の完成には、およそ40年という長い年月がかかった。おそらく、疫病や戦争のためと考えられている。教会ができあがったのは、もうマリアーノ4世の治世の時代ではなく、マリアーノ4世の娘のエレオノーラの幼いジューディチェ、フェデリーコが10才で亡くなった年の1387年である。そのことは、教会内部の壁に、サルデーニャの方言のサルド語で1387年11月25日にテッラルバの司教によってコンサクラーレされたと書かれていることからわかる。

サンガヴィーノモンレアーレ

マリアーノ4世は1347年から1378年までのおよそ30年間、アルボレーア王国のジューディチェであり、サルデーニャの歴史上とても重要な人物。
中世の時代、サルデーニャ島は4つの王国に分かれていた。その中で最も長く続いたのがアルボレーア王国。多くの貴族階級のファミリーがしていたように、マリアーノ4世はカタルーニャの宮廷で教育を受けた。マリアーノ4世にはウゴーネ、ベアトリーチェ、エレオノーラの3人の子供がいた。ウゴーネにアラゴンの宮廷で教育を受けさせるなど、マリアーノ4世は政治的にアラゴンとのつながりを少なからず持っていた。しかし、マリアーノ4世がジューディチェとなると、最初の頃はアラゴンと良好な関係を保っていたが、次第に反発し、戦争をおこすようになった。そして、サルデーニャ島の領土は、カリアリやアルゲーロなどの一部の町を除き、アラゴン王国が支配するようになった。

なぜ、サン・ガヴィーノ・モンレアーレの場所が選ばれたのか?
アルボレア王国とカリアリ王国の境であった。
カリアリとポルトトーレスを結ぶ道沿いであった。(サルデーニャ島を縦断する現在の国道131号と並行する)

ところで、サン・ガヴィーノ・モンレアーレという町の名前は、以前はサン・ガヴィーノであった。サン・ガヴィーノ・マルティレ教会ができてから、モンテ・レアーレ、つまり王の山を意味する城の名前のモンレアーレが加わった。今は、サン・ガヴィーノ・マルティレ教会は町の中心から少しはずれにあるが、中世の時代は、この教会から町が広がっていった。


教会のオリジナルを保っている後陣のヴォールトを支えるペンドゥッチョの4人の人物の彫刻を見ていきましょう。

マリアーノ4世
マリアーノ4世

マリアーノ4世(1319-1375) 在位期間1347-1375
王冠をかぶり、王の象徴である笏を持っている。右手でアルボレーアのシンボルである”引き抜かれた木”の紋章を抱えている。
アルボレーアの紋章は”引き抜かれた木”であるが、1352年までは、アラゴン王朝を示す4つの赤い柱であった。アラゴンとの戦争の際にこのアラゴンを象徴する紋章を廃止し、引き抜かれた木がアルボレーア王国の紋章となった。このことから、この教会は1353年以降のものであることがわかる。

ウゴーネ3世
ウゴーネ3世

ウゴーネ3世(1337-1383) 在位期間は1375-1383
ウゴーネ3世は右手で娘のベネデッタの顔をなでている。
ウゴーネ3世は、1383年に宮廷内の謀反によって娘のベネデッタとともに殺害された。
ウゴーネ3世の死後、ジューディチェの地位はエレオノーラの息子のフェデリーコに移るが、フェデリーコはまだ6才であった。そのためエレオノーラが摂政となる。

エレーノーラ アルボレーア
エレオノーラ

エレオノーラ(1347?-1403) 摂政期間1383-1403
サルデーニャの中世で最も有名な女性エレオノーラが摂政にあたっていた時に教会は完成する。摂政だったため、王を象徴する冠や笏はないが、宝石のついた豪華な服を着ている。その時代の高貴な女性としては珍しく、髪を結わえずに自然に背中に垂らしているのは、右頬にある傷跡を隠すためかもしれない。

父や兄のようにアラゴンとの戦争を続けたが、最も偉大な功績は、現代の法律にも通じるカルタ・デ・ログ法典を発布したこと。1827年にカルロ・フェリーチェが市民法を公布するまで、カルタ・デ・ログは用いられた。

このように中世サルデーニャの重要な女性であったにもかかわらず、彼女のイメージを表すものは他にはなかったため、この彫刻が発見されるまでは、エレオノーラの外観は想像上のものだけであった。

ウゴーネ3世の死後、エレオノーラの幼い息子、フェデリーコがジューディチェの地位につくが、1387年にフェデリーコは10才で亡くなり、フェデリーコの弟のマリアーノ5世がジューディチェとなるが、その時のマリアーノ5世も幼く、10才くらいであったと推定されている。そのため、エレオノーラの摂政が続いた。

ブランカレオーネ
エレオノーラの夫のブランカレオーネ

ブランカレオーネ・ドリア
ブランカレオーネはエレオノーラの夫。
顔の下には、ブランカレオーネ。ドリアの家系のシンボルであるワシが彫られている。
両手で押さえつけているのは、ブランカレオーネの敵であるアラゴン王ピエトロ4世であると推測されている。エレオノーラが摂政に当たっていた時に、ピエトロ4世によって、妻であるエレオノーラに揺さぶりをかけるために人質にされていた。1388年にサンルーリでの領土の一部を放棄する和解条約に調印したあとの1390年に釈放された。

謎のクリプタ
伝承によると、教会の下にはクリプタがあるという言い伝えもある。1950年代には、教会の下にクリプタがあるのではといううわさを確かめるために床がはがされ、新しくされた。(しかしクリプタは見つからなかった)この教会が完成して正式なものと認められたのは、エレオノーラの幼い息子、フェデリーコが亡くなった年の1387年。そして、エレオノーラが夫のブランカレオーネとともにしばしばこの教会を訪れていたことから、フェデリーコがここに埋葬されているのではないかと考える学者もいる。さらには、もしかするとエレオノーラも埋葬されているのではないかとも。

サンガヴィーノマルティレ教会 サンガヴィーノモンレアーレ

1957年から現在に至るまで、サン・ガヴィーノ・マルティレ教会は、隣接する修道会のチェナコロ・クオーレ・アッドロラート・エ・インマコラート・ディ・マリアの修道女たちによって、大切に管理されている。

error:
タイトルとURLをコピーしました